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“熱情”の引き起こす魔法は、単に強烈な“解放”だけにとどまらなかった。
それは深夜の出来事だった。その日もラベンダーを焚いて眠っていたメアリーは、外の喧騒で眠りから覚めた。
きっちり閉めたカーテンを少し開けると、闇に沈んでいるはずの煤けた世界が、赤く照らし出されていた。
メアリーは寝間着のまま、帽子を目深に被って外に飛び出した。いつもの悪臭は、何かの焼け焦げる匂いが混じって余計に酷くなっている。赤く染まった方角に視線を投げると、月光の射す隙も無いほど密に敷き詰められた曇天に、濛々と立ち上った黒煙が溶け出しているのが見えた。それは少女の頃からこの街の闇夜を知っているメアリーにとっても異様な、不安を掻き立てる光景だった。
──何の騒ぎです、これは。
側にいた一人に訊ねると、彼は怯えた表情で答えた。
──“熱情”のせいだ。狂人どもの仕業さ。遂に香水の工場を襲撃しやがったんだ!
メアリーは驚くより先に、反射的に顔を伏せていた。その頃には、“調香師メアリー・アンベル”の存在はとうに呪いの根源へと成り果てていたからだ。
“熱情”の愛用、それは既に中毒に侵されたことと同義になっていた。あの香水は、使うほどに逃れられなくなっていく。強すぎる魔法は阿片に変わってしまったのだ。しかし、メアリーがそれに気づいた時には、街中に中毒患者が溢れかえっていた。
街の香水店から、“熱情”は綺麗さっぱり姿を消している。中には、ドアが破られ、目につく限りの香水瓶が叩きつけられた惨状を呈する香水店まである。これは“解放”を渇望し、快楽に堕落した住民たちが争奪した結果だ。中毒になった人々は、これまでより過剰な“熱情”を求める。それこそ、“摂取する”という行為に至るほどに。甘美な雫に飢えた人々はその夜、製造工場を襲撃したのだった。
話を聞いて、メアリーは家に駆け戻った。ドアに鍵をかけ、分厚いカーテンを全て閉ざす。ただ一つ、自分を落ち着かせるためだけに香を焚き、彼女は息を潜めるように闇の中で目を閉じた。
この惨状が自分の熱情によってもたらされたとは、考えたくなかった。自分はただ、持てる限りの全てを“S6”の小瓶に注ぎ込んだだけだったのだ。煙突と電線と悪臭に囲まれ、呪われた日常から“解放”されるために。自らの理想とする“至高の香水”を、この世に生み出したかった。ただそれだけだというのに──。
自分が襲われるのも時間の問題だと、メアリーは悟った。それは狂気に侵された人々かもしれないし、正気を保ったままの人々かもしれない。もはや相手は誰でも同じだ。
“調香師メアリー・アンベル”としてこの街にいることは、もう不可能だった。
翌朝、世が明ける前。彼女は戸棚の奥に仕舞い込んであった“熱情”の瓶を取り出し、床に叩きつけた。琥珀色の魔法はガラス片と共に床に飛散し、舞い上がった香りがメアリーの胸を刺した。彼女は香を焚くのに使っていたマッチを擦り、その小さな炎を“熱情”に落とした。火はエタノールに引火して一瞬で燃え上がる。この街の“魔法”は、よく燃えた。メアリーの全てだった小さな家とアトリエは、その日の昼には黒く焼け落ちていた。
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