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「襲撃の火事と彼女の失踪で、“熱情”のレシピはこの世から失われたわ。街を侵していた狂気は少しずつ薄れていった。長い時間をかけてね。そうしてようやく、事件は収斂していったの」
それが、老女の語った事件の顛末だった。
五十年前、この街で起きた幻の香水を巡る事件。閉ざされたこの街の外側では、まったくの作り話だとまで揶揄される一部始終。余所者のコナーにとっても、取材するまではそのあらましすら謎に満ちていた凶事だった。事件の詳細もメアリー・アンベルの名前も、現在のこの街では禁句になっている。それだけ“熱情”の魔力は凄まじかった、ということだ。だが今となっては、その香水はこの世に存在しない。
「まさか、本当にこんな話だったとは思いませんでしたよ。実に空想的な話ですが、これは良い記事が書けそうだ」
メモを終えて、コナーはペンを置いた。わずかに残ったレモネードから、強く甘い香りが漂ってくる。グラスを取り上げ、何度目か分からない最後の一口を飲み干した。
コナーはグラスをカウンターに戻すと、一度も名乗ることの無かった老女に向かって微笑んだ。
「取材へのご協力、感謝します。──とても美味しいレモネードでしたよ、“ミズ・アンベル”」
コナーの言葉に、目の前の老女──老いたメアリー・アンベルの顔からすっと表情が消え……その唇に、これまでは決して見せなかった不敵な笑みが浮かんだ。
「あら。お気づきになってらしたのね」
コナーは「ええ」と鋭敏な青年らしく自信ありげに頷いた。
「貴女の話はあまりに詳しすぎた。アトリエから見える細かな景色など、メアリー以外に知っているはずがない。家を燃やす工程もね。すぐに気づきましたよ」
「まあ、勘の良い記者さんだこと。──それで?」
老いたメアリーは、若い女性がそうするように頬杖をついて身を乗り出した。
「知って、どうするおつもりかしら?」
コナーはゲームを詰めていくときの興奮を覚えながら、「話が早くて助かりますよ」と笑った。
「貴女はこの街では“メアリー・アンベル”として生きることなどできない。貴女が初めに仰った言葉を借りるなら、貴女の存在はタブーだ。そうですね?」
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