ZEST

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 メアリーは笑って答えない。コナーは彼女としばし視線を合わせた後、勝利を確信した表情で彼女に決定打を突きつけた。 「信じていないというわけではありませんが、この事件はあまりに空想的すぎる。記事にするには信憑性が足りないんです。だから真実だという証拠が必要でしてね。僕への口止め料なら、“熱情”のレシピが妥当でしょう。最高傑作として愛した香水だ、貴女なら詳細な配合まで、事細かに記憶しているはずですが」 「……ええ、記憶していますとも」  メアリーは一層笑みを深くした。まるで賭けでも楽しんでいるような、そんな笑みだ。 「けれど、私がわざわざ教えるまでもないのではないかしら? 貴方はもうその成分を知っているんですもの」  メアリーの瞳が、空いたグラスに向けられた。妙に香りの良いレモネードが、何度も注がれたグラスに。  痺れるような予感が()ぎる。コナーは目を見開いた。 「言ったでしょう。“熱情”は“解放”するのよ。貴方の深いところにある熱情をね」  コナーの脳裏にレモネードの香りが蘇る。爽やかなレモンの濃い匂いと、甘味の余韻を引き取る酸味と苦味。コナーは、“熱情”の香調(ノート)を知らない。だがもし、あの香りが──。  メアリーは続けた。 「素晴らしい熱情だったわ、若い記者さん。好奇心旺盛なのは、記者にとって最高の素質よ。貴方は根っからの記者だった。けれど残念。熱情に溺れて、自分の身が侵されていることにも気づかないなんて」  目の焦点が合わなくなり始める。コナーはペンに手を伸ばしたが、メアリーがそれを取り上げて床に捨てた。カウンターの内側から、ペンの跳ねる音が虚しく返ってくる。  にっこりと、メアリーは笑った。 「最後に一つ、いいことを教えてあげましょう。私がなぜ、シルヴィアに“熱情”という名を希望したのか」  まるで図ったように、意識が混濁し始める。激しい目眩に襲われ、コナーはカウンターに手をついた。息ができない。酷い動悸に、耳の奥で血が流れる音がする。  メアリーはその様子を見下ろしながら愉しげに、最後の秘密を明かした。
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