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老女がそう言うのと同時に、カウンターに大ぶりのグラスが現れた。先ほど注いでかき混ぜていたのは、どうやらレモネードだったらしい。苦味を含んだレモンの香りで、どんよりと霞んでいた頭が少しばかり晴れた気がする。臭気に圧されて酔いそうになっていたコナーには、素直にありがたい。
「今はこれしか出せないの。ごめんなさいね、こんなところで」
「十分です。お構いなく」
コナーが腰掛けているのは香水店のカウンターの前だった。どうせお客は来ないからと、老女が椅子を用意してくれたのだ。古びたカウンターの上のレモネードは、その爽やかな色合いも手伝って、この店の中で妙に浮いている。
コナーはグラスを取り上げると、レモネードに口をつけた。明度の高い液体は爽やかな芳香を纏って喉を滑り落ちていく。冴え冴えとする香りが鼻に抜けると、さっぱりとした酸味に続いて微かな苦味が残った。何か隠し味でも入っているのか、その辺りのレモネードより香りが良い。
「美味しいですね」
率直な感想を述べると、老女は嬉しそうに微笑んだ。
「あら、本当? 嬉しいわ。レモネードは若い頃からよく作っていたのよ。老いてからは、人様にはあまりお出ししないようにしていたけれど」
「なぜです? 僕はレモネードは好んで飲みませんが、これは格別ですよ」
コナーの言葉に、老女は一層笑みを深める。
「ありがとう。ほら、歳を取ると味覚と嗅覚はどうしても衰えてしまうじゃない。味が落ちているのではないかと思っていたの。でもよかった、私の感覚はまだ、お若い人にも通用するみたいだわ」
言いながら彼女は、自らもカウンターの前に腰を下ろした。彼女も何か付けているのか、ほんの微かに別の香りがしたが、コナーには捉えきれない。さすがはこの街の人間、というところなのか。
「では、始めましょう」
コナーはグラスを置き、ポケットから愛用の手帳とペンを取り出す。この街に来てからほとんど触れることのなかった取材道具だ。いやが応にも気合が入る。
「そうねぇ。さて何から話したものかしら」
老女は遠くを見つめるように目を細めた。懐古とも感傷とも取れない眼差しで、くすみきったガラスの外を眺める。
しばしの沈黙の末、老女はゆっくりと語り始めた。
「──この街にはね、猫も杓子もみんなそろって香水を身に纏うのが常だった時代があるの。あの事件は、ちょうどその頃……」
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