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その日が、彼女にとって人生最大の事件の始まりであることは、そのときは誰も知らなかった。
朝、街角の小さな家の二階で、メアリーはいつもより少し早く目を覚ました。ベッドから這い出し、カーテンを開けて外を見る。開けたところで、部屋に爽やかな陽光が差し込むことはまずない。夜の間に曇ったガラス窓を手で撫でると、向こう側には普段通り、灰色の空とくすんだ街並み、すぐ間近には傾いた電柱が立っている。メアリーの暮らすこの街の、生まれてから変わらない酷い景色だ。
ここに住む人々は、滅多なことでは窓を開けない。代わりに、家々では香を焚いたり芳香の強い花を育てたりするのが慣習だった。街で生まれ育った人々にさえ、この悪臭は耐え難い。だからせめて家の中だけはと、どこの家でも部屋の“匂い”には敏感なのだ。
メアリーも例に漏れず、朝は香を焚く。小さな香炉に粒状の香を入れて火をつけると、しばらくしないうちに柑橘の匂いが部屋に広がる。朝は頭の冴える柑橘類をというのが彼女のルールだった。
顔を洗い、着替えを済ませると、メアリーは香を焚いたまま屋根裏部屋に向かう。そこは彼女の、“調香師メアリー・アンベル”のアトリエだった。年季の入った戸棚や歩くと軋む床板、使い込んで鈍く光っている椅子、硬く閉ざされた天窓。この部屋の中は、そういうものの匂いで静まり返っている。無駄な匂いのしない、彼女にとっては誂え向きの場所だった。
メアリーは明かりをつけてアトリエの中でも日向──とは言っても陽は射さないが──の机の前に座り、昨夜まとめたレシピと試作品を机上に並べた。レシピを目で追うだけで、彼女の頭の中には一滴の香水の香調が再生される。メアリーは香りを思い浮かべつつ、依頼とともに受け取ったその構想を反芻した。
──人を“解放”するような香水を。
それは、あまりに抽象的すぎるものだった。しかし、まったく突拍子のない話というわけでもない。“解放”は、この街に住む人間なら誰しも一度は渇望したことのある願いだったからだ。
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