ZEST

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 薄暗い曇天と鼻が曲がるような匂い。無数の煙突に象徴された労働という枷、張り巡らされた電線の内側に詰め込まれる鬱屈。住民たちは皆、この煤けた街に縛りつけられるしかない理由を何かしら抱えている。職、家族、記憶、出生、ひょっとすると夢や野望も含まれているのかもしれないが、そういったものが彼らを捕らえてここに繋ぎ止めている。容易にこの街を捨てることのできない彼らからすれば、この日常からの解放は、望めど叶わない儚い夢なのだ。  この街に現れた“香水”は、その呪いをひととき忘れさせてくれる魔法として受け入れられた。屋外は灰色の現実、悪臭に満ちた世界だった住民にとって、香水は非日常を纏い、悪臭を忘れるための魔法だ。この街のほとんどの人間がそれぞれに香水を使うのはこのためだった。この街において香水は解放の魔法であり、その香りにはどこまでもその感覚が望まれる。今回メアリーに持ち込まれたこの依頼はつまり、この街の人々にとって至高の香水を調香してほしい、という難題なのだ。  机上に置いた小瓶は、中の僅かな液体を透かして電灯の影を机に落としている。薄い琥珀色の試作品には、“S6”というラベルが貼ってあった。メアリーはきっちり閉めたその蓋を開けて、数滴を匂い紙(ムエット)に落とした。  数ヶ月前、依頼が彼女のもとに持ち込まれたとき、メアリーは迷うことなくそれを引き受けた。  ──こういうのを待っていた。  煤けくすんだ街に生まれ、幼少期から数多の香水に囲まれて育った彼女にとって、それは悲願だった。メアリーもまた、自らの理想とする魔法を生み出すという呪いに取り憑かれていた一人だったからだ。しかし若くして名を上げ、今やそれなりに有名な中堅の調香師となっていた彼女は、安泰や名誉と引き換えに理想を追求する余裕を失っていた。そんな折にあってこの依頼は、彼女の秘めたる熱情をまさしく“解放”する、絶好の好機だったのだ。  彼女は自分の持つ全てをその香水に注ぎ込み、最高傑作である“S6”を創り出した。そしてその日は、それを依頼元へ届ける運命の日なのだった。
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