かいていた

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 防音の部屋に住んだのは元はと言えば、君の音を朝まで聞きたかったからだった。  苦笑しながら開け放したカーテンの向こうから、日の光がゆらゆらと誘い込まれてくる。名も知らぬ鳥の鳴き声以外に響くものはない。駅前で買った安いコーヒーは、相変わらず値段相応の味がした。  言わなかったことが二つだけあるんだ。  一つは、僕はそこまで言葉を紡ぐこと自体に関心があるわけではなかったということ。ただ君に言葉をつけたかったんだ。  僕の目に映る君の魅力を、君が生み出す音の持つ世界を、すべて文字にしていきたかった。それだけだったんだ。  だから約束は守れないと思う。お別れの時になってまで君が認め続けてくれていたものを、手放すことに対して惜しいという気持ちはあるけれど、でも、そういうことだから。仕事もまた見つけないとね。  そう、そのためにはスーツもいる。あの一張羅は捨ててしまったんだ。  思い出が詰まりすぎていたんだよ、君との。君は言わなくても分かってくれるだろうけど。  もう一つ、を言うのは、まだ早いかもしれないと思っている。  なんてこと誰にも言えないな、と思う時に、誰にも言えないことを君にだけは言えたなと、今も思ってしまうから。  僕たちの間にはあと何が必要だっただろう。何が足りなくて、何が余計だったんだろう。  どちらも言葉ではないんだと、これは僕がそう思いたいだけなんだけどね。  とさりと落ちた紺のTシャツを、乱雑にシンクに置かれた皿を、おめでとう、君がもう気にする必要はどこにもない。  これで良かったんだよと、袖を通した白シャツの隙間から漏らした言葉を、拾う人はもう、どこにもいない。  言わなかったことが二つだけあるんだ。  そしてそれを口にすることは、もうきっとないんだ。  この部屋からもいつか出ていく。でもそのいつかは、どうしようもないくらいに今じゃないんだよなぁと、伸びをする僕の影が、フローリングにうっすらと揺れていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!