堕ちる

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 積算課の篠原さんは、いつもシマでひとりぽつんとお弁当を食べている。電話が鳴れば淡々と応対し、またゆっくりとお弁当に箸を伸ばす。  一度、篠原さんの後ろを通り過ぎたことがある。個人用のスマホが置いてあって、待受は息子さんの写真だった。くりくりとした眼で、おそらく篠原さんに向けて笑っている写真だった。無垢で、濁りがないその笑顔は、篠原さんと似ていた。  優しい人だろうな、と前々から思っていた。  お弁当を温める列での何気ない会話が心の奥底に残っていた。そんな、とある日。  わたしはお昼休憩に入る一分前に、クレームの電話に捕まっていた。  お客様をそう言ってはいけないが、粘着質で終わりの見えない電話だった。ちらりと時計に目をやると、時計は12時30分を過ぎている。今日は、ご飯食べられないな。そう思った時、目の前にすっと付箋が置かれた。 『もう少し分かる者がおりますので、替わります、と言って保留に』  篠原さんが立っていた。  目で合図を送り、保留を促された。タイミングを待ち保留を押すと、篠原さんは当たり前のように受話器をとった。  深く頷きながらお客様の声を聴き、さらさらと付箋に書き込んで立ち尽くすわたしの前に滑らせた。 『ご飯食べてきてください』
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