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入学式からしばらくが過ぎ桜の花も散って目に緑も鮮やかな頃、伊坂を遠巻きにしていたクラスメイトたちも少しずつ話すようになりなんとなく馴染んできている。最初こそ避けていた長谷川もすっかり仲良くなってしまった。今だに伊坂にたいして慣れないのは伊丹くらいだ。
「再来週には中間かあ、早いな」
黒田のノートを丸写ししながら長谷川が嘆いた。さっきの授業は丸々寝ていたようで、泣きついたらしい。
「めんどくせえよテスト。こっちは夏になる前にがっつり練習したいのに」
去年、名勝負として地方の新聞を賑わせた県大会の決勝戦で惜しくも負けた黒田は最後となる今年に賭けている。
「どうせ甲子園行っても一回戦負けだろ、諦めろ。諦めて俺に二次関数を教えろ!」
「断る」
「黒田、人に教えると自己学習にもなって一石二鳥だ」
「じゃあ森見が教えればいいだろ」
「断る」
「断んのかよ」
隣で俺のノートを写していた伊坂が笑う。最初のイメージを裏切って伊坂はよく笑う男だった。黒田が部活を引退したら髪を伸ばそうかなと言っても、教師にあてられてわからなければ適当に「ルート2」と答える長谷川にも、俺が自転車で駅まで乗せていってやることをしぶしぶ了承しても。笑うと意外と幼くなる顔は愛嬌があって、なるほど女子が気を引こうとするのもわかる気がする。
「俺はやる気のない生徒に教えられるほどやる気のある教師じゃない」
「そうは言ってもなんやかやでいつも教えてくれるじゃん」
「そう、意外と森見は甘い」
長谷川と黒田の不本意な批評にため息をつきながらも俺はそれを否定できない。そうやって去年もテスト前に自分以外の勉強で苦労しているのは事実だからだ。
「お前教師に向いてんじゃない?」
「お前らみたいな生徒に付き合ってられない。ストレスで死ぬ」
俺の答えにげらげら笑いながら「絶対向いてる」と根拠のない太鼓判を押す伊坂が不愉快だったので、俺は写させてやっていたノートを取り返してやった。
「勉強を教えてください先生」
放課後、帰ろうとする俺を呼び止めて伊坂が言った。
「断る」
「人に教えると自己学習にもなっていいって誰かが言ってました」
「やる気のある教師ではないとも言ってなかったか」
「やる気のある生徒ならいいんだろ?」
俺は典型的な日本人なので実は頼まれると断れない。こいつはこの短い間にそれを看破したらしく、俺によく頼みごとをしてきて、そして俺はそれを断れない。
「俺はあんまり教えるのうまくないけど」
「ありがとうございます。授業料は体で払います」
「黙れ」
最近くせになりつつあるため息をつくと、軽い足取りの伊坂を追って教室を出た。
すっかり覚えてしまった後ろの重さを感じながら自転車をこぐ。放課後、基本的に黒田は部活があるし、長谷川は家が反対方向なので結局二人でいることが多い。大体、駅まで行って電車が来るまで他愛もない話をして過ごした。
最初は伊坂と俺の組み合わせに不思議な顔をしていたクラスメイトも今ではすっかりセット扱いになっている。伊坂狙いの女子の羨望の眼差しを受けながら教室を出ることにも慣れてしまった。
「俺図書館て行ったことねー」
「俺もあまりないな。本は買って読むから」
意外だなとかなんとか言いながら自転車の後ろに乗る伊坂からは時々人工的な香料の匂いがする。交差点で停まったときや、普段教室にいるときも僅かに香る。俺はその人工的な匂いが好きではなかった。
「お前、自転車に乗せてほしいならそれやめろ」
「何が?」
「香水」
「わかった」
自分で言っておきながら即答の伊坂に、俺は驚いた。
「いいのか」
お前が言ったんだろ、と伊坂が後ろで笑っている。見えないけれどきっといつものように柔らかく笑っているのだろうと思う。
「俺はお前の自転車の後ろに乗りたいんだから」
「今さらアシを探すのが面倒だからだろ」
「よくお分りで」
今日何度目かのため息をついて俺は長い坂道をゆっくりと降りていった。
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