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 一九五○年生まれ。戦後の復興の中で生まれたというその人の写真はただの町中の情景が写されていた。自販機に向かうくたびれたサラリーマンの背中、夜遅いバスで帰る小学生。全てモノクロームだけれど不思議と動きだしそうな写真だった。  十年ほど前に作られたこの美術館は建物自体が美術品のような不思議だけれど美しいフォルムをしていた。初めて入ったが面白いと思った。森見が見たいと言った写真展は時間帯のせいなのかそんなものなのか人はほとんどいなかった。入場料を払い展示場に入ると写真家の経歴を読んでいる俺を置いて森見はさっさと先にいってしまった。  朝早いコンビニの前を掃除する店員、幾重にも重なった電線、ローカル線の電車。俺は気に入った写真の前でだけ立ち止まっては次に進むから、全ての写真一枚一枚をじっくりと見ている森見にやがて追いついた。森見が見ていたのは民家の垣根からはみ出して咲く紫陽花の写真だった。 「ここにアマガエルがいる」 「ああ」  美術館の中は空調が効いていて、静かでとても心地いい。誰もいない、外の喧騒も暑さも感じさせない空間に森見と二人だけでここにいることが嬉しい。  俺は森見を追い抜くと、また気に入った写真を眺めては先に進む。やがてまだ森見が半分くらいしか見ていないところで全て見終えた。俺は展示場の真ん中におかれた、これまた変わった形のベンチに座って森見の姿を見ていた。 「おもしろくなかったか?」  森見が全て見終えたところで展示場を出た。美術館の中の、庭に面したベンチに座っていると森見が呟いた。こいつは無表情で少し冷たい印象を受けるけれどよく人を気遣うやつだと知っている。 「おもしろかったよ結構。善し悪しはあんましわかんねえけど紫陽花とかきれいだったし。ただの電線とかなん好きだったな」 「あの人の写真は本当にただの情景を撮っただけなんだ」 「モノクロなのに色を感じるのが不思議だよな」 「そうなんだ」  よほど好きなのか、いつもよりも口数の多い森見の横顔を見ている。初めて見る私服の新鮮さとか、不意に見せた寝顔とか。そのどれをとっても好きで。  時々、もし今俺が好きだといったらこいつはどうするのだろうと思うことがある。劇的に近づいているという自信はある。だから大丈夫じゃないかとか、普通に考えてやっぱり無理だろうとか。森見が俺に見せる無防備な面全てが俺に期待を持たせる。  俺はこいつのどれくらい特別だろうか。 「他の展示場も見てくか?」 「いやいい」  ここを出れば帰ることになる。自分で勉強は終わりと言った手前、図書館には戻れないけれど、でも俺はまだ帰りたくない。  美術館を出て駅の方へ向かいながらもなるべくだらだらと歩く。心なしか森見もゆっくり歩いているような気がしてそんな些細なことで俺は自惚れる。何か引き止める方法がないだろうかと探していた俺は、右手にさっきの公園が見えて無理やり森見をひっぱった。 「噴水出てるぞ」 「本当だ」  さっきは出ていなかった噴水が高く上がって涼しげな音を立てている。俺は靴を脱いでジーンズの裾を捲り水に入った。 「冷たい。めっちゃ気持ちいい」  呆れたように見ていた森見を手招くと、少しだけ笑って靴を脱ぎ水に足を浸した。すっかり日の長くなった最近は夕方とはいえまだ日差しが強い。噴水に手を浸すと冷たさが気持ちいい。 「伊坂」  呼ばれて振り向くと頭から水を被った。森見にかけられたのだと気づくまでに時間が掛かった。やり返そうと思って顔を拭い目を開けると、森見が声を上げて笑っていて。  見たことのない子供のような無邪気な笑顔に俺は、一瞬、息が止まった。  コンビニでタオルを買って髪を拭いた。森見に、家まで自転車なら15分で着くと言われたが俺は遠慮した。今こいつと部屋に二人きりになったら何を口走るか分からない。 「俺はきっとあの公園の前を通るたびにお前の間抜け面を思い出すな」  まだ笑っている森見にタオルを投げつける。別にそんなに怒っているわけではないのだが。多分その間抜け面というのは、急に水を浴びせられたことじゃなくて声を上げて笑う森見の珍しい姿に惚けていただけで。簡単に言えば見惚れていた。  思わず腕を掴んで引き寄せそうになっていた自分をなんとか抑えたのだった。 「お前も拭けよ」 「ああ」  このコンビニから駅までは5分もかからない。自転車を置いている森見は一旦図書館に戻るからここで別れる。 「じゃあな」 「ああ、じゃあ」 「行けよ」 「お前も行け」  何となく見送りたい俺は、森見が行ってから駅に向かおうと思うのに、森見が背を向けないからなかなか行けない。電車は確か10分後にあるはずだ。 「早く行けよ。電車何時?」 「36分」 「もうすぐじゃないか。急げよ」 「お前が行ったら行く」 「なんだそれ」 「じゃあせーので」 「小学生かよ」 「せーの」  こいつが俺と同じ思いでなかなか行かないならいいのに。  今まではただ笑った顔が見たいとか一緒にいたいとか、独占したいとか。そんなふうに思っていただけだった。けれど。  少し歩いてコンビニの駐車場を出るところで振り返る。すると同じように振り向いた森見がいて、同時に笑ってしまった。 「じゃあ明日」 「ああ、学校で」  きっと走って行っても電車には間に合わない。今度こそ駅に向かってゆっくりと歩きながら俺は今日のことを思い出す。  水の中、子供みたいに声を上げて笑う森見を引き寄せてキスをしたいと初めて思った。
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