鉛色の空の下

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鉛色の空の下

 誘拐されてから、どのくらいの時間が経過しただろう。  壁の外の生活は、壁の中の生活と比べて、とても荒んでいた。  僕が今誘拐されている所は、市街地と呼ばれる場所から少し離れた所にある。  そこはまるで、ネズミの隠れ家みたいな家だった。  さらにココに来て、ゴミや死体をよく目にするようになった。  それは誰かがそれを見たとしても、「自分には関係のないことだ」という風に、誰も気に止めないからだ。  誰がどこかで死にかけていようと、死んでいようと、誰もその人を、助けようとはしない。  だから僕を誘拐した彼は、最初「自分の身は自分で守れ」と、僕に言ったのだ。  ここでの生活を始めた頃は、それの意味がよく分からなかったが、今なら少し、それがわかる気がする。  ここは、人が人らしく生きるどころか、人らしく死ぬことさえも、難しい所なのだ。  しかしまぁ、人間の順応性が優れているのか、それともただ単に僕の神経が図太いだけなのか、僕はこの外側の世界での生活に、徐々に慣れていったのだ...。  この町で生活してわかったことがある。  この町では人が当たり前に死ぬということ。  この町の天候はアルカディアと比べて、ひどく変わりやすいということ。  この町には治安維持の組織がいないということ。    やたらとアルカディアからの護送車を目撃するということ。  そして僕を誘拐した彼の名前は、ヴァローナという名前だということ...。  ヴァローナ。  ロシア語でカラスを意味するその名前は、どこか彼に誂われた様な気がする時がある。  鋭く冷たい視線は、まるで獰猛なカラスの、それだったのだ。  誘拐されてから、おそらく一ヶ月。  珍しく朝食のときに、彼が口を開いた。  「今日の夕方、俺の仕事場に来い。お前に会わせる奴がいる。」  普段からあまり喋る方ではない彼が、朝に話しを切り出したことに、僕は驚いた。    「えっ...あ、うん。わかった。準備しとくよ。」  彼はそれを聞いて頷いた。  そして朝食のスープをたいらげて、彼はすぐに、家を出る支度をする。  きっと仕事に行くのだろう。  帰りは夜遅くなることが殆どで、あまり顔を合わさない。  彼は市街地の中心地で、便利屋を営んでいるらしく、主な仕事は、誰もやりたがらない汚れ仕事や、雑用だ。  彼は何でもこなしてしまう。  死体の処理~店の手伝いまで、そして、殺しの依頼までも。  そしてそれ以外の仕事でも、彼はこなしてしまうのだ。  それを彼から聞いたとき、まるでどんな役でもこなしてしまう役者のようだと、僕は思った。  そして彼は、いつものように、無言で扉を開ける。  きっと彼には、「行ってきます」や「ただいま」を言う習慣など、ないのだろう。  扉を開けると、外の空気が部屋に入ってくるのを感じた。  朝のそれは、あの時の空気によく似ていて、とても冷たいモノだった。  彼が仕事に行っている間、僕は一応、誘拐されている身なので、外に出ることは許されない。  しかしこんなネズミ小屋に居るだけなのも退屈なので、僕は自然と、家事をこなすようになっていた。  それがここでの、毎日だった。  時間が経過し、時刻は午後十六時半。  ヴァローナと約束した夕方とは、大抵十七時丁度のことを指すと思うから、そろそろ彼の仕事場に向かわなければならない。  玄関の扉を開け、空を見る。  朝にヴァローナを見送った時とは、まるで逆の空模様だった。  その暗い色の空からは、雨がいつ振り出してもおかしくない気配がしていた。  そんなことを考えながら、僕は足早に、彼の仕事場を目指した。  アルカディアにいた頃は、こんなことを考えたことがなかった。  天候をもコントロールできる社会システムを、僕は当たり前のように利用していたのだろう。  この外側の街を歩くと、どうしてもそのことを思い知る。  自分が何も考えていなかったことを、思い知る。  歩くこと約三十分。  目的地である仕事場に到着した。  薄暗い入り口から伸びる階段を上り、仕事場の扉を開ける。    「ヴァローナ、来たけど...。」  そう言った僕の視線の先には、椅子に座っているヴァローナと、ヴァローナと話している、赤色のスーツを着た中年の男性が、同時に目に入ってきた。  「あぁ、来たか。」  僕に気付いたヴァローナがそう言うと、その赤いスーツの男性も、僕に気付いたようだった。  そしてその人は、入り口に立っていた僕をしばらく見た後、からかうように、ヴァローナに言った   「なるほど...たしかに、外の奴とは、大分違うな。お前のように汚くはない。」  「あぁ、そうだな。あんたみたいに、金に汚くもない。」    「なっ!?お前がそれを言うのか?ぼったくり便利屋の分際で!」    「それはお互いさまだろ。」  2人のやりとりに、完全に置いてけぼりを食らってしまった僕は、とりあえず一言、一番気になっていたことを、赤いスーツの男性に尋ねた。    「あ、あの!あなたは、一体...」    「おっと、こりゃあ失礼。俺はこういう者だ。」  男性はそう言うと、赤いスーツの胸ポケットから一枚の名刺を、僕に差し出した。  そこには情報屋と書かれていた。    「情報屋...ですか?」    「昔は、ちゃんとした新部記者だったんだが...今はここら辺で、情報屋をやっているんだ。名前はガットネロだ。よろしく、ユラ君。」  そう言うと、その男性は僕に手を差し伸べてきた。そして握手だと思った僕は、その手を握った。  「あぁ、よろしくお願いします。」    「なるほど、これは本当に、壁の内側の人間のようだ。何の疑いもなく、俺の握手に応じたのは、情報屋を始めて、君が初めてだよ。」  そう言うと、ガットネロさんは手を離し、ヴァローナの方に振り返った。  そして部屋の中央にあるソファーに腰掛けた。  それを見て、ヴァローナは不機嫌そうに言った。    「お前に会わせたい奴は、本当は別に居たんだが、こいつが押しかけてきたんだ。」  それを聞いたガットネロさんは、笑いながら言う。  「押しかけてきたとは失礼だな。ヴァローナ。誰の情報のおかげで、お前さんはあんな馬鹿げた事をしても、助かったと思っているんだ?」  そう言われると、ヴァローナは肩をすくめながら、椅子から立ち上がり、ソファーに腰掛ける。  そして僕もそれを見て、ヴァローナの隣に座った。  僕が座るや否や、ガットネロさんは真ん中のテーブルに、ある図面を開いて見せた。  それを見て、ヴァローナはガットネロさんに尋ねた。    「これはなんだ...?」    「これか?これはな...理想都市の設計図さ。」    それを聞いて、ヴァローナは呆れたように、言った。    「お前な...いくらなんでも速すぎないか?俺があんたにそれを依頼したのは、一週間前だったろ?」    「うちの店は『速さ』と『質』が売りなんでね。」    「後者は怪しい気がするが...。」    「そんなことはないさ。なぁ、ユラ君。」    「えっ...あ、はい。そうですね。これは本物だと、思います。」    急に話を振られて少し戸惑ったが、そんなことはどうでもいいと思えるくらい、僕はその設計図に目を奪われていた。  だってそれは、紛れもなく、本物の設計図だったからだ。  「あの...これ、どうしたんですか?」  僕が恐る恐る尋ねると、ガットネロさんはニヤリと笑って言った。  「悪いがね、情報提供者は匿名希望が定石だから、出所は言えないな。」  それを聞いて、ヴァローナが口を挟む。  「信用できるのか、それは?」  その言葉は、多分ヴァローナとは別の意味で、僕も思っていた。  しかしガットネロさんの自信がありそうな表情は変わらない。 「安心しろ、確かな情報だから。さて、それじゃあ、作戦会議といこうか。」  そう言いながら、不敵な笑みを浮かべるその表情に、僕は少しだけ、不安を覚えた。  テロ計画の内容は、思ったよりも単純なモノだった。  最近やたらと出入りしているアルカディアの護送車を奪い、壁の中に入る。  そしてそのまま、システムがあるとされる『総督府』に侵入したら、後はアルカディアのシステム本体を、壊してしまうというモノだ。  口で言えばかなり簡単に聞こえてしまう。  しかしながらこの作戦は、どこで間違えたとしても、それは死ぬことに直結してしまう。  僕はこの作戦を聞いて、ここまで『死』というモノが近い現実に、絶望的な気持ちになってしまった。  そして、さらにそこから話は進んでいき、数十分が経ったころ、チラリッと腕時計を見て、ガットネロさんは言った。  「さて、それじゃあ粗方の説明は終わったからな、そろそろ『商品』の仕入れに行こうか。」  そう言うと、彼は図面を畳んで、鞄にしまい、そそくさと仕事場を出て行ってしまった。  それを見て、僕らも後を付いて行った。  ガットネロさんが言っていた『商品』というのは、きっと『殺し屋』のことだ。  それは今回の作戦では、使わなくてはいけない武器となる。  アルカディアの護送車を奪うには、その護送車の運転手を、誰かが相手しなくてはならないからだ。  ガットネロさんは、警戒心の薄い内側の、しかも優秀さだけが取り柄の、総督府の職員なら、必ず殺せると、踏んでいるらしい。  仕事場から外に出ると、少しばかり雨が降っていた。  その空を見て、なんとなく僕は、考えた。  これからやろうとしていることの重さを、考えた。  きっと、これらの事が上手くいってしまえば、アルカディアに住む人は、皆普通では居られなくなるだろう...。  もしかすると想像以上の死人が出ることになるかもしれない。  それでもあの時、あの廃工場の中で、僕は言ってしまった。  「協力する」と、言ってしまった。  そしてそれは、今の僕に、重くのしかかる。  重く、重く、苦しく、苦しく...。  鈍色の空に、カラスが一羽。  いっそのこと...っと、考えてしまう僕を、それは静かに、見張っているように見えた。
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