幸福のなみだ

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 「あの子には関わっちゃダメよ」と、ママに言われた。  お化けトンネルを抜けた先にある、今にも崩れそうな廃墟に、たったひとりで住んでいる男の子のことだ。  いつも同じボロボロのTシャツを身に付けていて、首も腕も脚も、折れそうなくらいに細い。だけど、ぼさぼさの長い前髪の下から覗く両目は、どきりとするほどまっすぐな、綺麗な瞳で、私は、ずっと前からその子のことが気になっていた。友達になりたいと思っていた。  どうして学校に通っていないのだろう。  工事現場で、大人たちに混じって働いている姿を見掛けたことがあるけれど、一緒にいたママに、「見ちゃダメよ」と手を引かれてしまった。汗を流して一生懸命に働く姿は、私のような子供とは違って、とても格好いいな、と思ったのに。  小学校からの帰り道、今日は、わざと遠回りをして、廃墟の前を通ることにする。  空は、いつものように分厚い雲に覆われていた。冷たい風に煽られた霧雨が、時折シャワーのように顔を濡らす。レインコートのフードをしっかりと被り直して、私はぴょん、とカエルになった気分で水たまりを飛び越える。  お化けトンネルは、じめじめしていて、薄暗かった。自分の足音が反響するたびに、心臓がきゅっと縮む気がする。学校で、オカルト好きの友達が目を輝かせて話していた、世にも恐ろしい怪談を思い出しそうになり、慌てて頭の隅に追いやる。  トンネルの途中に、薄汚れたダンボールが置いてあった。「拾ってください」という貼り紙がしてある。恐る恐る覗き込んだけれど、中身はからっぽだった。  ほっと肩をなでおろして、私は逃げるように走り出す。  本当に人が住んでいるのか、疑いたくなるような廃屋に、そっと近づいた。  くもったガラスを洋服の袖で拭いてから、ひび割れた窓に、鼻をくっつける。じっと目を凝らしても、暗くてよく見えない。つま先立ちをして、うんと背伸びをした時、 「……ミオ?」  名前を呼ばれて、はっと振り返った。  例の男の子が、私のすぐ後ろに立っていた。  思っていたよりも、背が高い。私のことを探るように、おずおずと見つめる目は、どこか気遣わしげだった。 「私の名前、どうして……」  一瞬、男の子の表情が固まった。言葉を探すように、口を半開きにしたまま、何度か目を瞬く。 「前に、友達と一緒のところ、見たことがあって。それで、知った」 「そっか」  自分の知らない間に、私のことを気に留めてくれていたことが嬉しかった。もしかしたら、本当に友達になれるかもしれない。 「ねぇ、名前は?」 「ナナシ」 「名無し? 名無しの権兵衛ってこと?」  ふざけているのかな、と思ったけれど、男の子の表情は、いたって冷静だった。 「うん。名前、ないんだ。だから、ナナシ」 「ふええ」  やっぱり、この子、格好いい。名前がない人なんて、学校にはひとりもいないもの。  ドキドキしながら、私は男の子の方へ一歩近づく。勇気を出して、右手をまっすぐに差し出す。上目遣いに、そっと見上げた。 「良かったら、友達になってくれない?」  ナナシの顔に、ふっと笑みが浮かんだ。  笑うと、ずいぶん印象が変わる子だな、と思う。さっきまでは、ちょっとミステリアスな、大人びた雰囲気だったのに、笑顔になったナナシは、私と同年代の普通の子供に見えた。  硬いマメだらけの、ごつごつした乾いた手のひらが、私の手を包み込む。 「うん、いいよ」  声は、少しだけ震えていた。
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