幸福のなみだ

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 その写真を見つけたのは、偶然だった。  その日、いつものようにナナシの家の扉を叩いたけれど、返事がなかった。扉を、軽く押してみる。きぃ、と音を立てて、ドアが開く。  雪が降っていた。歯がカチカチ鳴るくらい寒くて、ぶるぶる震えながら、暗い廃墟の中を覗き込む。 「ナナシ、いる?」  呼び掛けても、やはり返事はない。  家の中に足を踏み入れたのは、寒くて寒くてたまらなかったからだ。ランドセルとレインコートに降り積もった雪を払って、入り口のそばの窓の近くで、ナナシの帰りを待つことにする。  ふと、窓際の勿忘草の鉢植えの下に、一枚の写真が挟んであるのが目に入った。何気なく手に取る。そして、息をのんだ。  そこには、私が写っていた。  ふわふわした茶色い子犬を、両手でぎゅっと抱き締めて、笑っている。今にも笑い声が聞こえてきそうな、開けっ広げな、笑顔。  写真を、裏返す。  2220年、5月1日。そこには、半年前の日付が記されていた。 「どういうこと?」  思わず、呟く。  見知らぬ子犬を抱き締める、自分の顔が、知らない人のように見える。ごくり、と唾を飲み込む。写真を持つ指先が、震えた。 「ミオは、覚えていないよね」  どきっとして、弾かれたように振り返った。 「ナナシ……」  いつの間にか、ナナシが背後に立っていた。  前髪に隠れて、表情は見えない。くちびるは、陶器のように真っ白だった。 「その子犬の名前は、ソラ。ミオ、きみが名付けたんだよ」 「私が……?」 「あの日、きみはお化けトンネルに捨てられていたソラを見つけて、途方に暮れていた。僕たちが、本当に初めて出会ったのは、その日だよ」  半年前。僕たちは、この家で、こっそり捨て犬を育て始めた。ガリガリに痩せ細っていたソラは、僕たちの心配をよそに、すくすくと成長した。目のくりっとした、人懐っこい子犬だった。 「だけど、ソラは死んでしまった」  戦車に轢かれたんだ。  ナナシが、かたく両手を握り締める。今から、ちょうど一ヶ月前の出来事だったという。 「私、なにも覚えてない」  信じられない気持ちで、呆然と写真を見つめる。  氷のように冷たい手のひらが、そっと、私の肩に触れた。 「ミオは、少しも悪くないよ」  だけど、僕はずっと、ミオに気づいて欲しかったのかもしれない。  顔を上げると、ナナシのまっすぐなまなざしが、私を見下ろしていた。 「ねぇ、ミオ。悲しみのない世界が、本当に幸福だと思う?」  ふいに、地面を揺るがすような轟音が響き渡る。家が小刻みに震えて、天井から、ぱらぱらと細かい埃が落ちてくる。  ひび割れた窓の外に、目を向ける。  黒塗りの戦闘機が、白い空を、鳥のように飛んでいく。けたたましい警報器の音が、ひどい耳鳴りのように聞こえる。  戦争に行ったお父さんの顔を、私は覚えていない。  家に写真が残っているから、存在は知っているけど、お父さんがどんな声をしていて、どんな風に私に話し掛けてくれていたのか、少しも覚えていない。  でも、それは当たり前のことだった。  悲しみも、苦しみも、涙を流すことでリセットされる。そうすることで、私たちは、絶望せずに生きていける。戦争や災害による死別を、恐れずに、生きていける。  その時、ふと、思い当たることがあった。 「だけど、ナナシはどうして覚えているの?」  ナナシが答える前に、パトカーのサイレンの音が、すぐ近くで聞こえた。
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