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狭いクローゼットの中で、息を殺して、外の気配をうかがう。
いくつもの足音が、忙しなく通りすぎていく。いたか? いや、いません。もっとよく捜せ。この辺りにいるはずだ。男の人の怒鳴り声が、聞こえる。
クローゼットの中は、かび臭かった。古びたコートやショールが、首や腕に触れて、くすぐったい。何より、触れあうほど近くにナナシがいるせいで、こんな時だというのに、胸がドキドキしてしまう。
ようやく足音が遠ざかっていった時、息を吐き出すように、ナナシが呟いた。
「僕は捨て子だったから、ワクチンの接種をしていないんだ。だから、ミオとは違って、僕の涙にはなんの効力もない。悲しみや苦しみが消えることも、記憶を失うことも、ない」
だけど、悲しみを知る存在は、この国の脅威になり得る。この国が、人々の目から巧妙に隠し続けているものを、暴いてしまう可能性が、僕にはある。そう、ナナシは言った。
「施設を抜け出して以来、色んな街を転々としながら、ずっと、逃げ続けてる。こう見えて、僕はお尋ね者なんだよ」
「そこまでして、どうして逃げるの?」
尋ねたその時、心を覆っていた膜が溶けるように、ナナシの表情が和らいだ。
それは、今までに見たことのない、ナナシの本当の笑顔だった。胸が苦しくなるくらい、優しくて、あたたかい笑顔だった。
「どうしても、忘れたくない人がいるから」
ナナシの手のひらが、私の頭の上に重ねられる。
「今まで、ありがとう」
そう言われた時、私は決めた。
この人を守るために、私にできることは、ひとつしかない。
「私があなたを忘れても、ナナシは私のことを覚えていて」
別れ際、私の言葉に、ナナシは頷いてくれた。そして、鉢植えの勿忘草を、一輪切り取って、手渡してくれた。
その花を、胸にぎゅっと押し当てて、私は走った。風を切って、がむしゃらに、ひたすらに、とにかく走った。
凍えそうな寒さの中で、目頭が、火のように熱くなる。くちびるを噛みしめて、涙をこらえる。少しでも、あの家から、遠ざからなければならない。ナナシから、離れなくてはならない。
胸が張り裂けそうな悲しみを抱くほど、大好きな人と出会えたこと。
それは、何より幸福なことなのだと、ふいに思った。
忘れたくないよ、ナナシ。
あなたと過ごした日々を、なかったことにしたくない。どんなに苦しくても、もう二度と会えなくても、あなたのことを覚えていたい。
だけど。
つまずいた拍子に、青い花が地面に投げ出される。
膝をついて、空を仰いだ。白い息が、湯気のように、私の口から立ち上っていく。
私は、あなたを忘れることで、あなたのことを守りたい。
「さよなら、ナナシ」
目を閉じる。
熱い涙が、頬を伝った。
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