幸福のなみだ

5/6
前へ
/6ページ
次へ
 狭いクローゼットの中で、息を殺して、外の気配をうかがう。  いくつもの足音が、忙しなく通りすぎていく。いたか? いや、いません。もっとよく捜せ。この辺りにいるはずだ。男の人の怒鳴り声が、聞こえる。  クローゼットの中は、かび臭かった。古びたコートやショールが、首や腕に触れて、くすぐったい。何より、触れあうほど近くにナナシがいるせいで、こんな時だというのに、胸がドキドキしてしまう。  ようやく足音が遠ざかっていった時、息を吐き出すように、ナナシが呟いた。 「僕は捨て子だったから、ワクチンの接種をしていないんだ。だから、ミオとは違って、僕の涙にはなんの効力もない。悲しみや苦しみが消えることも、記憶を失うことも、ない」  だけど、悲しみを知る存在は、この国の脅威になり得る。この国が、人々の目から巧妙に隠し続けているものを、暴いてしまう可能性が、僕にはある。そう、ナナシは言った。 「施設を抜け出して以来、色んな街を転々としながら、ずっと、逃げ続けてる。こう見えて、僕はお尋ね者なんだよ」 「そこまでして、どうして逃げるの?」  尋ねたその時、心を覆っていた膜が溶けるように、ナナシの表情が和らいだ。  それは、今までに見たことのない、ナナシの本当の笑顔だった。胸が苦しくなるくらい、優しくて、あたたかい笑顔だった。 「どうしても、忘れたくない人がいるから」  ナナシの手のひらが、私の頭の上に重ねられる。 「今まで、ありがとう」  そう言われた時、私は決めた。  この人を守るために、私にできることは、ひとつしかない。 「私があなたを忘れても、ナナシは私のことを覚えていて」  別れ際、私の言葉に、ナナシは頷いてくれた。そして、鉢植えの勿忘草を、一輪切り取って、手渡してくれた。  その花を、胸にぎゅっと押し当てて、私は走った。風を切って、がむしゃらに、ひたすらに、とにかく走った。  凍えそうな寒さの中で、目頭が、火のように熱くなる。くちびるを噛みしめて、涙をこらえる。少しでも、あの家から、遠ざからなければならない。ナナシから、離れなくてはならない。  胸が張り裂けそうな悲しみを抱くほど、大好きな人と出会えたこと。  それは、何より幸福なことなのだと、ふいに思った。  忘れたくないよ、ナナシ。  あなたと過ごした日々を、なかったことにしたくない。どんなに苦しくても、もう二度と会えなくても、あなたのことを覚えていたい。  だけど。  つまずいた拍子に、青い花が地面に投げ出される。  膝をついて、空を仰いだ。白い息が、湯気のように、私の口から立ち上っていく。  私は、あなたを忘れることで、あなたのことを守りたい。 「さよなら、ナナシ」  目を閉じる。  熱い涙が、頬を伝った。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加