幸福のなみだ

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 その瞬間、深い、深い眠りから覚めた時のように、意識がくっきりと鮮明になった。  まつげの上の水滴が、視界のいちばん隅っこで、ネオンのようにキラキラ光っている。  右頬に手を当てる。肌は上気し、こもった熱を持っていた。まばたきをすると、目の下にピリピリとした強張りを感じる。指先でたどっていくと、目尻からくちびるの横へと続く、幾筋もの涙の跡があるのが分かる。  濡れた親指と人差し指を、擦り合わせる。生ぬるい水滴が、あっという間に乾いていく。  両手で顔を覆った。  いつ涙を流したのか、まるで覚えていなかった。  心はいたって平静で、悲しみも、怒りも、苦しみも、微塵も感じない。涙とともに流れ落ちてしまった感情が何だったのか、どんなに必死に思い出そうとしても、思い出せない。  私が泣いた理由を、私は知らない。  それは、とても幸せなことなのだと、誰もが言う。涙を流すほどの悲しみや苦しみの記憶を消し去って、前を向いて生きていける私たちは、とても恵まれているのだと。ネガティブな感情にとらわれ、振り回され、身を滅ぼしたかつての人々よりも、ずっとずっと幸福なのだと。  その言葉を否定できるだけの根拠を持っていない私は、「そういうものだ」と、自分を納得させることにする。そして、緩やかで平穏な日常の中へと、ふたたび埋もれていく。  2220年、日本。  度重なる戦争と災害、疫病の蔓延によって、疲弊した社会に押し潰され、息ができなくなった人々が、次々と自らの命を絶っていく、混迷の時代。  人口の激減が社会問題となる中で、ひとつのワクチンの発明が、状況を一変させた。  そのワクチンは、強い悲しみや苦しみといった、ネガティブな感情の発露に際して、特殊な成分を有する涙の分泌を誘発する。そして、その感情の原因となる出来事にまつわる記憶を、涙を流すことによって体外へ放出させる。  つまり、死にたいくらい辛い気持ちを、「泣く」という行為によって、自動的に浄化し、リセットしてくれるのだ。  政府は、風疹や麻疹の予防接種と同じように、すべての国民に、このワクチンの接種を義務づけた。その結果、自殺する人間はみるみるうちに減少し、この政策が開始してから10年後には、日本は世界の幸福度ランキングの第3位にまで浮上した。  悲しみのない、幸せな国、日本。  私、ミオは、出生時にワクチンを投与されるようになってから生まれた、その第一世代だ。
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