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ボーダー×ボーダー40
後頭部に沈殿する鈍痛で目が覚める。
「うっ………」
頭痛に障らぬようゆっくり目を開く。
意識が覚醒し暗闇が露光、糸の視界が徐徐に広がっていく。
「起きたか」
隣に麻生がいた。
「アンハッピーニューイヤー」
「まだあけてねえ」
「………ってことは……」
「大晦日だよ、ぎりぎり」
外気に冷やされ頭がしゃんとするのを待ち、疑問を呟く。
「俺、どうして……」
「覚えてないのか?フェンスに頭ぶつけて脳震盪おこしたんだ」
「何分くらい気を失ってたんだ?」
「十分くらい」
「……眠ったのに体がだりぃ。十分じゃHP回復しないよな、はは」
無理して笑えばずきりと頭が痛む。
手首に抵抗を感じる。
「前にもあったっけ、このパターン」
もう笑うしかねえ。自分の馬鹿さ加減にとことんあきれ不運を恨む。
俺たちは給水塔の基底部の鉄梯子に手錠で連結されていた。
手首にはがっちり手錠が噛まされ試しに引っ張ってもびくともしない。
絡んだ鎖が鉄棒と擦れガチガチ耳障りに鳴る。
「へぶしっ!!」
唾しぶき盛大にくしゃみを放つ。
横顔にくしゃみをくらった麻生が露骨に嫌そうに身を引く。
「汚い。俺にかけんな」
「しかたねーだろ、ジャージ一枚っきりなんだから」
「コートくらいひっかけてこいよ」
「~急いでたんだよ、だれかさんが学校に爆弾仕掛けたなんて犯罪予告してきたおかげで」
「風邪ひくぞ」
「腹いせにウイルス感染させてやる」
「ならキスするか」
「~ほんっと悪趣味だな、この状況でそういう冗談いうか普通、仲良く手錠噛まされて人質とられた状況でさ!」
「いちいち感情的になるな」
「俺からかって楽しいか、なあ楽しいか?」
怒りに任せ限界ぎりぎりまで鎖を引っ張り手首を振り、麻生の方へ身を乗り出し怒鳴る。
「痛っ……」
はっと息を呑む。
隣り合わせに蹲る麻生の腕……コートの色が黒いせいでパッと見わからなかったが、袖の上部が裂けてどす黒い染みができている
血。
「腕、怪我してるのか」
「……放っとけ……」
「血い出てるじゃんか!!」
むりやり手錠をひっぱったのが傷に障ったらしい。
蒼ざめ俯く麻生に猛然と噛みつく。
「怪我してるならしてるって言えよ、傷開いちまったじゃんか!!腕、痛いのか。傷深そうだ。早く手当てしなきゃ……くそ、さっき保健室から包帯もってくりゃよかった。大丈夫か、辛いか?汗すごいぞ。あんまむりすんな、じっとしてろ……って往生際悪く暴れた俺が言っても説得力ねえけど、とにかく動くな。痛み止めのモルヒネは持ってねーからこういうときはそうだ、全力で他の事考えろ、ホームズの踊る人形に出てくる百体の人形を順番に思い浮かべてシャル・ウィー・ダンス」
腕の怪我は深い。
コートの色に紛れて一瞬判別つきにくいが、出血がだいぶ多い。
「とにかく手錠外して病院に、ケータイで電話……くそっ、固え、とれねえ!こういう時は油、前に本で読んだんだ敵にとっ捕まった探偵が手首に油ぬってツルッと抜け出すの、それかバターかマーガリンかワセリンかなんでもいい油性のもん、潤滑剤がいる!!てかなんだよ手錠って、廃工場に続き二度目の体験、手錠って日本のどこでも普通に買えるのか、ドンキとかで普通に売ってんのかよ!?どっから取り出したんだこんなマニアックな拘束具、ドラえもんの四次元ポケットからか!?」
「梶先生の自宅から失敬した。こんな事もあろうかとね」
ぴたり反抗をやめる。
正面に立つ不吉な人影。
薄汚れた革靴で地面を踏み、くたびれた背広姿の中年男が気さくに微笑む。
「……梶先生の趣味には感心しないが、コレクションの一部を拝借しておいてよかったよ」
敷島。
授業が退屈と評判のうらぶれた教師の面影を引きずってはいたが最前までとどこか雰囲気が違う。
本性さらけ出した敷島を眼光鋭く一瞥、麻生が嗤う。
「……殺人罪に窃盗罪が加算されたな」
「いまさらさだ」
「おかげで手錠本来の用途がプレイじゃなくて拘束だって思い出せた」
「麻生の腕、先生がやったんですか」
片膝立て抑えた声で敷島に問う。
腹の底で暴れ狂う憤激に駆られ、反抗的な眼光をぶつける。
「あんたがやったのかって聞いてるんだ。麻生に、教え子にナイフ向けて恥ずかしくねえのかよ?-っ、今まで授業教えてきたじゃんか、あれは嘘か、人がいい中年教師の顔の裏で梶の副業に加担してたのか、眠たげな顔はよそゆきか、俺に付き合ってぐるぐる校舎回ってくれたのも全部演技だったんだな、梶を殺して俺を騙しただけじゃ飽き足らず今度は麻生を……クズが!!」
「生徒にクズよばわりはこたえる」
「自業自得」
麻生が憎まれ口を叩く。
「先に裏切ったのはあんただろ」
俺も加勢する。
片膝立ちの姿勢で油断なく敷島の顔色をうかがいつつ口を開く。
「さっきの放送でひとつひっかかった。相手が麻生ならあんた呼ばわりはへんだ、梶は生徒をお前よばわりする最低教師だ」
麻生への呼びかけとすると二人称が不自然だ。
俺は図書室で麻生とふたりきっりになった梶がお前よばわりする現場を目撃した。
「……話し相手は麻生じゃありえねー。そうなると……」
「私だ」
あっさり白状した、こっちが拍子抜けするほどに。
わかっていたが、本人の口から聞くとショックがでかい。
「……梶はあんたを脅していた、共犯と呼んだ。あんた、梶が仕切る組織にかかわってたのか。いつから?六年前から?学校じゃお人よしのふりして、生徒と同僚だまして、裏じゃ梶と組んでレイプ被害者食いものにして荒稼ぎか。なんでそんなこと………教師の給料だけじゃ満足できなかったのか、刺激がほしかったのか?そんなに毎日つまらなかったのか、先生は。たしかに俺、居眠りばっかでテストの点も悪くって、全然いい生徒じゃなかったけど……優しいいい先生だとおもってたのに」
抑揚なく詰問する。
敷島の視線が泳ぐ。
「……六年前にも同じことを言われたよ」
誰に言われたかは聞かなかった。
聞かなくても薄っすらわかった。
「田舎の母が病気でね。………金が必要だったんだ」
六年前、敷島は母親の入院費を稼ぐため犯罪に手を染めた。
あるいは弱みにつけこまれ、梶にむりやり従犯と幇助を課された。
「陳腐なお涙頂戴話と笑われてもしょうがない、実際その通りだ。梶先生は六年前、着任と同時に売春斡旋に手を染めた。そして当時、入院費と手術費の捻出に頭を悩ませていた私に従犯として目を付けた」
色気の枯れた顔が哀愁を誘う。
平凡な幸福と縁遠く四十年の人生で辛酸をつぶさになめてきたような中年男が卑屈に笑う。
「察しの通り、梶には脅されていた。金が欲しくて最初は手を貸した、だがもううんざりだった。手術の甲斐なく母は死んだ、悪趣味な副業に手を貸す理由もなくなった。手を切りたかった。しかし彼は、梶先生はそれを許さなかった。自分の本性と商売を知る私を野放しするものかと、抜けたら私がやってきたことをバラすと脅し続けた。……六年間、心が安まる日は一日もなかった」
「座間圭」
敷島が目を見開く。
視線を横に流す。
手錠に繋がれた麻生が億劫げに上体を起こし、ひどく冷たい目で敷島を見詰める。
糾弾の銃口の目。
「あんたが最初に殺した生徒の名前だ」
「………そうだ」
背広から抜いた手が掴んだものを見て、あっと叫びかける。
敷島の手の中には例の封筒があった。
今さっき、麻生と格闘を演じ奪い合った手紙。
だがそれはよく見ると色褪せ古びている。美術室で入手した封筒はもっと新しかった。
「……その手紙……てか、なんで敷島がおっことした手紙をお前がもってんの。瞬間移動トリック使ったのか、二十面相みてーに」
「圭の遺書だ」
敷島がいとおしむ手つきで封筒をなでる。
人殺しには似つかわしくない優しい表情、目に宿る郷愁の光。
授業中も、夜の校舎を走り回ってる時さえ見せたことない表情だった。
暴力を用いた壮絶な奪い合いを制したのは敷島だった。
敷島に渡った手紙を見る麻生の目に、氷点下の憎悪と殺意が覗く。
「………六年前の真相を教えろ。あんたは座間圭の死因を知ってるはずだ」
「読んだならもう知ってるだろう」
「だいたい予想はつくけど、本人の口から聞きたい」
緊迫した視線が絡み合う。
麻生が放つ苛烈な眼光と、殉教者じみて静謐な敷島の眼差しとが削り合う。
「……圭は自殺だった。そう言ったら信じるかい?」
「あんたが殺したんじゃないのか」
敷島が哀しげに微笑む。
「圭とは美術室で出会った。放課後、下校時刻ぎりぎりまで居残って絵を描いてるところを、教室の前を通りかかって偶然見かけてね。何度か会話をかわした。最初はそれだけだった。……圭が一年の五月、美術部の顧問が産休に入って、急遽私が代理を務めることになった。圭は熱心な生徒だった。指導し甲斐があった。ひとの目をまっすぐ見て、真面目に話を聞いた。授業中、無視されることに慣れていた私は……たぶん、嬉しかったんだ。親子ほども年の離れた生徒に慕われて、悪い気はしない」
白く儚い息吐き、淡々と述懐する。
「圭は従順だった。そしてとても優しかった。困ってる人を放っておけない性格で、私が資料運びをしてると、すぐとんできて手伝ってくれた。私たちは急速に親しくなった。圭は……家庭環境が複雑で、そのせいかほかの子と比べて大人びたところがあった。同年代の友達にも一線引いた礼儀正しさで接する圭が、私とふたりきりになった時だけ年相応の笑顔を見せてくれるのがたまらなく嬉しかった。……圭の特別な存在でありたかった」
誠実な教師そのものの口ぶりに引き込まれる。
人殺しとは思えないほど穏やかな顔と声音で故人を語りながら、色褪せた封筒に指を這わせる。
「……梶はまず手始めに、私の一番身近にいた圭に目を付けた」
話の核心に至り、麻生の顔に緊張が走る。
生唾をのみ、強張る横顔と敷島の柔和な表情を見比べる。
「……ここから先はおおむね君の想像どおりだ。梶先生の持論だと、相手を意のままに従わせる一番手っ取り早い方法は暴力らしい。母と圭ふたりを人質にとられ、逆らえなかった。私が抜ければ、あるいは真実を告発すれば圭に危害がおよぶ。……私にも良心があった。梶の犯罪に手を貸すのは躊躇があったが、金と圭にはかえられない。だが、圭は……圭は優しすぎた。耐えられなかった」
「あんたが殺したんじゃないのか」
「圭は屋上から飛び降りた。目撃者がいうんだ、間違いない。信じるかどうかは勝手だがね」
目撃者。
その一言で、敷島が座間圭の自殺現場に居合わせた事実が発覚した。
「……寒い日だった。暗い夜だった。ちょうどこんなふうに吐く息も白く凍った」
敷島と座間圭は互いに想い合っていた。
二人の間に麻生と梶のような性交渉があったかはわからないが、感傷的な口ぶりは教師と生徒の一線をこえた関係をほのめかしていた。
プラトニックな関係だったのかもしれない。
敷島の口ぶり性格からするとその可能性が高い。
すべて敷島の証言に拠る推測。すべてが真実だとは断定できない。
だが少なくとも、俺には敷島が嘘を吐いてるようには見えなかった。
麻生は眼光鋭く敷島をうかがっていたが、ふいに顔を伏せる。
「………くっ」
「麻生?」
「ははははははははははははっ!」
仰天。 唐突に笑い出す。
さっきの俺みたいに仰け反るようにして哄笑する、品行方正な優等生の仮面をかなぐり捨て前髪を振り乱し大袈裟に笑い飛ばす、世界に宣戦布告するように。
「人が悪いな、先生。秋山単純だからすっかり騙されてるじゃないか、あんたの上っ面と同情誘う演技に。座間圭の死について非がないならなんでここに来た、俺の呼び出しを真に受けた?」
笑い歪む横顔に毒々しい瘴気がにじむ。
「自分は関係ない?加害者である前に被害者だってそう言いたいのか、梶に脅されていやいや手を貸しただけだって主張するか、だから悪くないか。自己憐憫に見せかけた自己弁護はやめろ、偽善者。座間圭を殺してない、あくまで無実だって言い張るならどうして学校に来た?犯人は現場に戻る、あんたはまんまと釣られたんだ、俺がちらつかせた餌に」
「餌?」
「遺書だ」
唇を下品にねじり、軽蔑しきった顔で唾棄する。
片膝たて敷島と対峙し、失血による消耗に息を荒げつつ、抑圧した声音で言う。
「『座間圭の遺書を持ってる、取り返したけりゃ学校に来い』。そうケータイにかけたらすっとんできた。あんたの慌てぶりときたら傑作だった、さぞはらはらしたろうさ、そんなに蒼ざめて生きた心地がしなかったろうな。まさか梶を殺した直後だとは想定外だったけど……卑怯で腰抜けなあんたのことだ、自分の手で梶を殺しときながら何食わぬ顔で言い逃れるつもりだったんだろ?梶はそこらじゅうから恨みを買ってるからな、誰に刺されたっておかしくない。勿論俺もその一人だ、独占欲の強い変態には辟易してた、殺す動機は私怨で十分だ。だけどあんたは律儀にやってきた、なんでだ、怖かったからだ、圭の遺書に何が書いてあるか知りたくて言われた通り来るしかなかったんだ!圭の遺書を取り返して始末するつもりだった、そうだろ、証拠隠滅するつもりだったんだ。不都合な事や物や人は始末してさっぱり忘れる、それで余生は安泰だ、あんたは何食わぬ顔で安月給の教師を続ける!!」
眼鏡の奥、沸点に達した憎悪が冷却され、底冷えする眼光を放つ。
「………させるか」
視線に霜が下りる。
俺が知る麻生はいつもつまらなそうな顔をしていた、気取って本を読んでいた。
無表情、無感動、無関心。
しかし今の麻生は感情をむきだし、敷島への敵愾心と憎悪を露にしている。
麻生の中にこんな激しいものが眠っていたなんて
圭ちゃんは麻生にとって、それほど大切な人間だったのか。
「あんたはたっぷりびびらせてから殺してやるつもりだった」
「……秋山くんを巻き込んだのは私に対する牽制か」
「監視役さ」
唐突に名前を出されたじろぐ。
「言われた通りあんたは学校へやってきた、座間圭の遺書を取り戻しに」
「梶先生のマンションで電話を受けた。座間圭の遺書を持ってると君からケータイにかかってきた時はびっくりしたよ」
「あんたは大慌てでやってきた、そこで秋山と出会う。気が気じゃなかったろ?あんたは遺書を捜してた、秋山は俺をさがしてた。目的と方針の違うふたりが一緒に行動してたんだ、空回るはずだよ。内心びくびくもんだったろ。美術室で手紙を発見した時は心臓がとまったはずだ、ちがうか」
饒舌にまくしたてながら挑発的な上目で敷島をうかがう。
降参したように敷島が苦笑する。
図星。
「……十年は寿命が縮んだ」
「あんたは真っ先に絵に駆け寄った。傑作だよ、計算通りだ。犯罪者の心理を読むのは簡単だ。座間圭の絵は罪の証、人目にさらすのは耐え難い。そしてあんたは秋山の目から絵を隠そうと、咄嗟に取り上げ……」
「ざっくり手のひらを傷付けた」
「一応罪悪感はあったみたいだな。単に臆病なのか?自殺に追い込んだ生徒の絵と向き合うのは耐えがたいか」
美術室に乗り込んだ時の状況を克明に思い出す。
あの時敷島は懐中電灯を室内に一巡させ、絵を見るや愕然と立ち竦んだ。顔色は紙の如く、血の気が失せきっていた。
俺が煙草に注意をとられた隙に素早く絵に接近し、不用意に取り上げた瞬間、第一の罠が発動する。
仕掛けられた剃刀は深々敷島の手のひらを切り裂いた。
「あんたは絵に付せられた手紙が遺書だと思い込んだ」
「だから背広にしまったのか」
『これは私が預かる』
怪我して不自由な手でわざわざ手紙をしまう敷島。不自然な態度。
あの時は注意力散漫な俺を気遣っての申し出と解釈したが、実際は違った。
「じゃあ……手紙をおとしたってのも嘘か」
「わざわざ捜しに戻らせてすまないことをした」
首をうなだれ殊勝に謝罪する。
保健室の光景が甦り、ガリッと奥歯を噛み縛る。ころっと騙された自分の愚かさが腹立たしい。
敷島が背広の内からもう一通封筒を取り出す。
見間違えようもない、俺が美術室で入手し敷島が紛失したと偽った封筒だ。
同じ二通の封筒を手に持ち敷島が言う。
「恥ずかしいことに、麻生くんが本物を出すまでだまされきっていた」
二通の封筒を比較すると右手の方が古びていた。
闇の中では一見判別し難いが、左手の封筒は真新しい。
頭を高速回転させ情報を右から左へ整理する。
麻生は座間圭の遺書を持ってると言って夜の学校に敷島を呼び出した。
敷島は梶殺害現場となったマンションで携帯に連絡を受け、その足で学校に直行した。
懐中電灯を持って旧校舎を探索していた敷島は、物音を聞き付け準備室に向かい、ばったり俺と遭遇する。
ここにいる本当の理由を勘付かれてはなるまいと宿直の嘘を吐き、麻生捜しの手伝いを買って出る。
俺は敷島に感謝する。
敷島という心強い味方を得て、はりきって捜索を再開する。
敷島は内心あせっていた、俺と遭遇したのは誤算だった。
性悪な麻生はおそらく同時に俺を呼び出した事を伏せていた。
俺と一緒に校舎を徘徊しながら敷島は焦っていた。焦慮は恐怖の域にまで高められた。
殺人の直後で動転していたのに加え麻生の呼び出し、隣には俺がいる。
決め手は美術室の絵。
踏み込んだ瞬間顔色が豹変したのもむりはない。
敷島は生前の座間圭と面識があったばかりでなく、加害者としてその死に深く関与していたのだ。
遺書
手紙
座間圭
遺作の肖像画
俺の目には第三のヒントに見えた物が敷島には全く別の物に映った。
すなわち過去からの脅迫状。
先入観と罪悪感に起因する錯覚。
上記の条件が揃えばフェイクの手紙を本物の遺書と誤解するのもむりはない。
「煙草と手紙、二重の疑似餌に釣られたワケか」
心理の裏をかく巧妙な作戦。
頭脳明晰な麻生は敷島の行動を正確に読み、俺というおまけを付けてプレッシャーをかけ続けた。
何も知らない俺は、道化だった。
「……回りくどい手を」
「あんたはただ殺すだけじゃ惜しい、とことん追い詰めてやるつもりだった」
「さっきの言葉をそのまま返す。安い悪役の台詞だね」
俺がいたんじゃ敷島は自由に動けない。
俺はただそのためだけに呼ばれたのか。
敷島を牽制するためだけに、悪趣味なゲームに巻き込まれたのか。
そもそもの始まりから麻生と敷島、一対一の対決だった。
俺は眼中にさえ入ってなかった。
敷島にプレッシャーをかけるためだけに盤面に配置された駒だった。
「……麻生、お前」
「『よくも裏切ったな』か?」
『見付けてくれ』
『とめてくれ』
「嘘、だったのか。俺にとめてほしいって、あれ。わざわざうちに電話かけてきて……」
俺じゃなくてもよかったのか。
「………電話……ケータイ、何度もかけてきて。足棒になるまで必死に走り回ってお前さがして、大晦日だってのに、今頃コタツでぬくぬくしてるはずだったのに、俺、お前の言葉真に受けて。寒い中走り回って、でもこれ、嘘なのか。全部ぜんぶ大掛かりな芝居だったのか。お前の目的は敷島で、あとはどうでもよくて、俺はおまけで、ただ敷島を苦しめたいだけに呼んで、だから別に俺じゃなくてよかった、たまたまテキトーなのが俺しかいなかったから」
「お人よしに付け込んだんだ」
胸が、
切り刻まれるように痛い。
「案の定、単純で鈍感なお前はくるくる予想通り動いてくれた。無知な言動で敷島を困らせてくれた。笑えたよ、秋山。最高だった。想像するだけで笑いがとまらなかった、なんにも知らないお前が無邪気に敷島頼って、敷島がそんなお前を内心うざがりながら道化の笑顔貼り付けておくびにださずいい人ぶって捜索に協力して、最高の喜劇だった」
憎悪を圧し握り込んだ拳が疼く。
熱い塊が喉にせりあがる。
「爆弾もでたらめか」
「本当」
「そこは嘘にしとけよ、なんで仕掛けんだよ馬鹿じゃねえかお前!?」
「ニトログリセリン余ったから」
「発想せこっ、んな危険物余らせんな!!」
「冗談」
この状況で冗談言える神経すげー。
最低の底も抜けて、いっそ笑っちまう。
「復讐ついでに俺をおちょくったのか。俺はあくまでついでのおまけで、いてもいなくてもどっちもでよかったのか」
「いてもいなくてもどっちもでいいけど、いたらちょっとだけ面白くなるかなってさ」
悪びれず言う涼しげなつらをぶん殴りてえ。
親指を内に握りこみ、身の内で荒れ狂う激情を辛うじて抑える。
頭に血が上る。
心臓が爆発しそうに高鳴り、血液中にドーパミンが拡散する。
「爆弾仕掛けたとか言うから本気にして、学校来て、ほんと寒くって」
「コート着て来い」
「そういう問題じゃねえよ!俺、夕飯もまだで、腹へって、大晦日なのにしけったポテチで、すっげー侘しくて、でもそれでもガマンしたのはお前を是が非でもぶん殴りたかったからだよ!なんだよ、これじゃ俺ばかみたいじゃんか。麻生無視すんな、こっち見ろ、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。不謹慎だけど、俺、お前からの電話とってちょっと嬉しかったんだよ」
「梶が爆発に巻き込まれたって聞いて?」
「初めて頼ってもらえて嬉しかったんだよ!!」
そうだ、白状する。俺は嬉しかった。
ママチャリをがむしゃらにこぎ坂道を一気にかけのぼりながら、土足で校舎にあがりこんで階段を駆け上がりながら、心のどこかで浮き立つ喜びを感じていた。
漸く頼ってもらえた、話してもらえた。
随分一方的な頼みだけど、でもそれでも頼ってもらえて嬉しかった。
麻生に頼ってもらうのが初めてで
なんでもかんでもひとりで抱え込んできた麻生が、ボーダーラインの内側に俺を招きいれてくれたことが嬉しくて
有頂天だった。
舞い上がっていた。
梶が重態で病院送りになって、聡史は警察署に足止めくって、麻生は学校に爆弾を仕掛け立てこもってるのに、麻生の指名を受けた俺はこれで漸く借りを返し対等になれるかもしれないと勇み立っていたのだ。
全部でたらめだったなんて、
俺じゃなくてもよかったなんて。
「頼ってもらえたとおもった、次に恨まれてるとおもった、図書室で見て見ぬふりした俺を恨んで心中するつもりだっておもいこんだ、でも違った、お前は恨んでさえなかった、どうでもよかったんだ!!」
駄目だ、とまらない、洪水のように罵倒があふれ出す。
胸が苦しい、つかえをとりたい。
だから叫ぶ、がむしゃらに叫ぶ。
ここに呼ばれた理由、ここにいる理由、それを「どうでもいい」の一言で片付けられた。
走りすぎて肺を痛めて、心臓はばくばくして、口の中は干上がり血の味がして、なのに麻生は「どうでもいい」と言い放った。
「俺、なんのために走ってたんだよ?!」
「自己満足のためだろ」
麻生が口を開く。
「お前が余計な事したせいで最後の最後で計画がくるった、台無しだ。駒のくせに勝手に動くな、俺の手の上で動いてりゃよかったのに。駒は駒らしく駒に徹してりゃいいのに、でしゃばるなよ。お前なんかただの疑似餌だ、敷島を翻弄するための餌だ。疑似餌としちゃ十分な働きだよ、毛ほども敷島を疑ってなかったんだから。敷島、お前もまんざらじゃなかったろ?秋山に慕ってもらえて嬉しかったんじゃないか」
「こっち見ろよ」
「良心とやらが痛んだろ?懐く秋山の姿に圭ちゃん思い出して」
我慢の限界だった。
脳裏で閃光が弾け、気付けば猛然と麻生に掴みかかっていた。
相手が怪我人だというのに容赦も忘れコートの胸ぐら掴み勢い込んで縺れ合って倒れこむ。
「圭ちゃん圭ちゃん圭ちゃんさっきからそればっか、いい加減俺を見ろよ、今隣にいる俺は全無視かよ、ふざけんなよ!!俺は駒か、ははっ駒がこうやって歯向かうもんか、駒に下克上される気分はどうだよ秀才、答えてみろよ!!」
「邪魔するな」
「俺を見るまでジャマしてやる!!」
抗う麻生に眼光をえぐりこむ。激昂し、コートの胸ぐら掴んで罵れば、麻生もまた鬱陶しげに肘を払って応戦する。
暴れれば暴れるほど梯子に巻かれた鎖ががちゃがちゃ擦れ騒々しい音をかなで手首が痛み、けど俺は頭が真っ白で、目の前は真っ赤で、圭ちゃんと敷島しか見えてない麻生をこっち側に引き戻そうと上等なコートをぐいぐいひっぱる。
ガキっぽい喧嘩、悪態の応酬。
ふたりして床に転がり揉みあう鼻先を薄汚れた革靴が過ぎっていく。
「お先に失礼」
「待て敷島!!」
「これを取り戻したからには長居の理由も消えた。君たちは年が明けるまで遊んでればいい。……生きて新年を迎えられる保証はないが」
青春ていいねと言わんばかりの笑み。
鷹揚ぶった物腰で退散する敷島に麻生が手をのばす、俺も正気に戻り敷島を目で追う。
硬質な靴音がコンクリ固めの屋上に響く。
犯罪の証拠の遺書を入手し、もう屋上に用はないと背中で宣言し、教師が立ち去る。
「麻生くんが仕掛けた爆弾は至近で作動すれば二・三人を死に至らしめる威力があると証明された。……梶先生を刺した時、むこうに包みが転がっていた。あれが爆弾だったとはね」
口封じ。
俺たちが死ねば梶を殺した犯人と六年前の黒幕を知る人間もいなくなる。
俺たちを屋上に放置し帰ればそれで殺人が完了、あとは爆弾が始末を付けてくれる。
「畜生っ、行かせるかよ!」
無慈悲に鉄扉が閉じる。
興奮の余り起き直り駆け出しぐいと手首を引かれバランスを崩す。
手錠の存在をド忘れしていた。
「!!痛って、」
頭に来てがちゃがちゃ手錠を揺する。
だが俺の手首が擦れて血が滲むだけで一向に輪抜けの極意は体得できない。
「こういう時は肩と腕間接外して、って無茶いうなできねーよ!!」
「役立たねー知識」
「うるせっ、お前も手伝……」
振り返り、絶句。麻生の顔色が青を通り越し白くなってる。
コートに染みた血は腕を伝い、指の先からコンクリ床に滴る。
だらしなく投げ出した腕、弛緩した四肢。
失血のせいで意識が薄れ始めたらしく瞼がうつらうつらする。
「爆弾はどこだ?」
質問をかえる。
焦点の合わない目で俺を見て、次いで、給水塔の頂を仰ぐ。……あそこか。
「実際どの程度の威力なんだ」
「一人は確実に即死。巻き添えでもう二・三人」
「俺と、お前と、敷島と……残念、ひとり欠けちまったな」
指を三本折って強がる。麻生が力なく笑う。
ふと真顔になり、呟く。
「学校はむりでも屋上くらいは吹っ飛ぶ」
「……おれたちを道連れにか」
「給水塔が墓標になるわけだ」
鉄扉のむこうに耳を澄ましてみたが、敷島が帰って来る様子はない。
このまま見殺しにする気か。
時間が来れば爆弾ドカン、俺と麻生は仲良く心中の運命だ。
「今何時?」
不器用な右手で携帯をチェック、液晶の時刻表示を確認。
刹那、全身から血の気が引く。
タイムリミットまで残り十分を切っていた。
「早く解除……いやその前にこれ外さねーと梯子のぼれねーし、鍵、待て待てもってねーし、どっかにヘアピン……その前に俺男でここ男子校、屋上にヘアピンなし!あったとしてもこの真っ暗闇でわかるか普通!?」
「逆ギレかよ。ひとりで騒がしいヤツだな」
「なんで作って仕掛けた本人が一番落ち着いてんだよ!?」
不条理だ。理不尽だ。
掴みかかる勢いで吠えれば、瞼を開けてるのも辛そうな麻生がぼそり呟く。
「…………そうだな。変だな。妙に現実感がない」
なげやりな調子。すべてに疲れきった様子。
弛緩した腕から大量の血が流れ出し、コートをどす黒く染める。
よく見ればコートはあちこち裂け、首に巻いたマフラーにも血痕が付いている。
「携帯鳴ってる」
麻生が顎をしゃくる。場違いな古畑任三郎のテーマ。
片手で不器用に操作し、ぎこちなく耳にあてがう。
『もしもし、透?真理から聞いたけどあんた遅くまでなにやってんの、友達の家にお邪魔しちゃ悪いでしょ』
お袋。
「帰ってたんだ」
『とっくに帰ってるわよ、パートから帰ったらあんたがママチャリ飛び乗って出てったって聞いてびっくりしちゃった。夕飯食べたの?お友達の家でご馳走になった?おそばは茹でてラップしてあるからおなか減ったらあとで……どうしたの、だまりこんじゃって』
「お袋、ごめん」
『どうしたの、いきなり』
「こないだのケンカの事。ちゃんと謝ってなかったからさ」
『………もういいのに』
「よくねえよ」
これっきりになるかもしれねーのに
『……変な子ねえ、改まっちゃって。大晦日に過去清算?水に流して新年迎えようって魂胆?』
「魂胆て。息子にむかって」
麻生の視線を横顔に感じる。
深呼吸で冷静さを吸い込もうとして失敗、半笑いで引き攣る。
お袋に心配かけまいと条件反射が働く。
努めて軽口を叩き、いつもどおりの俺を演じる。
「……ごめん。酷いこと言って」
携帯を握る手がかじかむ。指が小刻みに震え、ともすると取り落としそうになる。
耳に挟んだ携帯がずりおちる。吐く息が白く溶ける。鼻の奥がツンとする。
深く首をうなだれる。
お袋の声、たまらなく懐かしい。
安堵と虚脱が入り混じった温かい感情が押し寄せ、なかなか言葉が続かない。
爆発まで残り十分を切った。
給水塔の頂に爆弾がセットされてる。至近で爆発すれば、間違いなく即死。
俺、死ぬかもしれない。
死ぬのいやだ。
怖いよ、うち帰りてえ。
「……………」
弱音を吐くな、心配かけるな。
折れそうな心を懸命に叱咤、携帯を握り締める。
麻生の視線が痛い。安堵と羞恥を同時に覚える。今の俺、どんな顔してるんだろう。きっと最高に情けない顔、今にも泣き崩れそうな面だ。
家に帰りたい。お袋に会いたい。真理に会いたい。
畜生、情けない、でもそれが本音だ。
寒い中走り回るのはもうこりごりだ。
「お袋、俺」
帰りたい
『どうしたの深刻な声出して。てんぷらならとっといたから安心なさい、あんたの好きなかぼちゃよ。海老は真理が食べたけど』
くそ、あいつ俺の一番の好物を。
こんな時まで、せこい。せこすぎて情けないやら笑っちまうやらで、泣き笑いに似て顔が歪む。
考えたくねーけど、これが最期の会話になるかもしれない。
何を言えばいい?何て言えばいい?さようなら、ありがとう、元気で。どれもふさわしくない気がする。遺言の文才なんて持ち合わせない。
この年になって、お袋の声聞いただけでうっかり泣きそうになるなんて情けない。恥ずかしい。麻生の顔、まともに見れねえ。
重苦しい沈黙が続く。
お袋がふとだまりこむ。
俺も言葉を返せず、込み上げる熱い塊を噛み砕き、俯く。
一方で諦めきれず、がちゃがちゃ手錠をひっぱる。
『あんたには苦労かけるわね』
お袋がしんみり呟く。
「そっちこそ、どうしたんだよいきなり」
『……あんたとこういう話したことなかったし。いつも照れくさくって避けちゃってたから、いい機会だし、ね?』
そしてお袋は語り始める。
『透には感謝してる。あんたはバカな子だけど面倒見よくて優しくて、だからお母さん、甘えちゃってた。息子に甘えるなんて母親失格よね』
「そんなこと」
『あるの。あんたがしっかりしてるから、透にまかせておけば大丈夫だって、心のどこかでそう思ってたの。でも、こないだのあれで……ああ、あんたもまだ反抗期終わってないんだなあってしみじみ安心しちゃった』
「安心?」
『そう、安心。だって考えてみてよ、あんたがああやって怒鳴ることなかったじゃない。真理とはテレビのチャンネル争いとか漫画のとりあいとかくだらないことでしょっちゅう喧嘩するけど私にむかって本気で怒ったことないでしょ。……お父さんがいなくなってから』
心臓が強く鼓動を打つ。
『無理させちゃってごめんね。小学校の時からずっとだもんね。そりゃいやになるわよ。あんたはばかだけどすごくいい子で……すごくいい子だから。何も言わないのにバイト代家に入れてくれるし。私にはもったいないくらいいい息子』
反則。
なんでこんな時に
『でもね、透。これだけは言わせて』
お袋の声が若干真剣みを帯びる。
どうしても譲れない大切な事を話そうとしてると察し、こっちも相応に真剣に、身構えて聞く。
俺には見えた。
実際目の前にいないお袋が、携帯のむこうで、左手薬指に嵌まったくすんだ指輪をなでる様が。
『いい思い出なら、とっといたっていいじゃない』
携帯の向こうで、お袋はきっと笑ってる。
苦労しどおしの荒れた手をさすり、所帯やつれした顔で、それでもむりせず幸せそうに笑ってる。
『過去に縛られて生きるのはかっこ悪いって風潮あるけど、お母さんこうおもうの。過去があるから今があるって』
陳腐な台詞。もしお袋が目の前にいたら、直接会って話していたら、とてもじゃないが素直に聞けなかった。
鼻で笑ってすませるか、キレてまた怒鳴り散らしていたはずだ。
でも、今。
もう少しでこの世とおさらばするかもしれない状況で聞くお袋の声は、鼓膜を通し、心に染みる。
『……お父さんは確かに身勝手で駄目な人だけど、いい思い出もちゃんとある。虫がいいかもしれないけど、その思い出まで否定しなくたっていいじゃない。本人がどっか消えちゃったんなら、せめて思い出くらい持ってたってばちあたらないわ。あの人が遺してくれたもの全部に価値がないとは母さん思わないわ』
そんなこと知ってる。
転んだとき、泣くのを我慢した俺の頭を大きな手でぐりぐりなでてくれた。
「透は強い子だな」と笑って褒めてくれた。
お袋の言葉が呼び水となり、もう顔も薄れ始めた親父とのささやかな思い出が漠然と甦る。
ああ、そうだ。俺から言い出したんだ。
親父に「強い子だな」と褒められて嬉しくて、だから俺は調子にのって、「おれは強くてかっこいいから、なんかあったらエンリョなく頼っていいよ」と言った。「そうか、そうか」と親父は嬉しそうに頷き、大きな手でわしゃわしゃ頭をかきまわした。
ああ、そうだ。
俺から言い出したんだっけ。
『透 母さんと真理をよろしく頼む』
親父は信頼してくれたのか。
『お父さんと出会えたから透と真理がいる。全然後悔してないわ』
きれいごとだと笑って片付けるのは簡単だ。
おふくろだって完全に割り切ってるはずがない、女を作って会社の金持ち逃げした親父にわだかまりを残してるはずだ。
だけど。
それでも。
『透と真理のお母さんになれたのはお父さんのおかげよ。……あの人のせいで色々苦労したし、一時は本当に恨んだけど、でもね、なんか吹っ切れちゃった。あんた達、笑うんだもの。お父さんがいなくなった分、笑うんだもの。笑い声がうるさくて、いやでも前向きになっちゃうわよ』
くそったれな親父だけど、それだけじゃなかった。
それだけにしちゃいけない。
涙腺がゆるみ視界が曇る。
携帯掴む手の甲で瞼を拭う。
情けねえ、ほんとかっこ悪ぃ。なに泣いてんだ、いい年して。十七だぞ。
ギャグがすべりがちな天然のお袋。
足癖の悪い、口答えばかりする生意気な妹。
捨てなくてよかった。
握り締めた携帯電話から電波に乗じ声が伝わる。
押し黙った俺を案じ、お袋が『透?とおる?』とくりかえし名前を呼ぶ。
なんか答えなきゃ。安心させなきゃ。なんでもねーふりしなきゃ。
液晶の時刻表示がプレッシャーを与える。携帯をもつ手が汗でぬめる。胸が騒ぎ、心臓がばくばく脈打ち、頭が真っ白になるー……
指が触れた。
「!」
指の又に指がすべりこむ。
手と手が重なり合う。
弾かれたように隣を見る。
麻生は正面に視線を投じ、給水塔の梯子にぐったり背中をもたせている。
麻生の手はひどく冷え切っていた。
かいたそばから汗は冷やされ容赦なく体温を奪い去る。
重ねた手から伝わる体温と感触に徐徐に平常心を回復、深呼吸で顔を上げる。
「……大丈夫、聞いてる。……うん、もうすぐ帰る。そば、とっといて。あとで食うから」
約束し、携帯を切る。
携帯を懐に突っ込み、給水塔のてっぺんを睨む。
給水塔の頂からちらり箱が覗く。
梯子をのぼりきった縁にのっかってる、あれは……
試しにもう一度手錠をひっぱる。やっぱだめ、どうしたって切れそうにない。
手だけなら?
巨大な給水塔を見上げ、覚悟を決める。
「秋山?」
給水塔の側面におもいっきり肩をぶつける。
骨まで響く震動に顔を顰める。
側面に体当たりすれば、縁に見える奇妙な箱が震え僅かに手前に動く。
「のんびりみてねえで手伝えよ、爆弾おとすんだよ!」
我ながら手荒だ。
かたや指を湿し入念に唾をすりこみ、圧搾の痛みに耐え、手を引っこ抜きにかかる。
俺の手には少し大きめな手錠だ、頑張れば抜けるはず、きっと。
「下手にショック与えたら爆発するぞ」
「何をいまさら、ほっとけばどっちみち死ぬだろ、だったらあがいてあがいてあがききったほうがましだ!!」
ガンガン給水塔を蹴り付け、体当たりをくりかえす。
屋上でひとり暴れる俺と対照的に麻生はあきれ顔、指一本動かさず醜態を見守り続ける。
「かっこ悪ぃ」
「お前は黙って死ぬのを待つのがかっこいいとでも思ってる高二病か、敷島ぶん殴りたいだろ、いいのかよこのまま死んじまっても!?自殺するために爆弾仕掛けたのか、だったら願ったり叶ったりだけど付き合いきれねーよ、俺は死ぬためにわざわざここに来たんじゃねえ、天国に一番近い屋上にきたんじゃない、お前と生きて戻るためにここに来たんだよ!!」
麻生が爆弾を仕掛けた理由。
敷島と心中するつもりだったのか、自殺が目的か。
バカと紙一重の天才の思考回路は理解できない。
今は理由を云々してる場合じゃねえ、一分一秒でも早く爆弾をおとす!
「もう疲れた」
「厭世的な事言ってんじゃねえよ、まだ十七だろお前、こないだ十七になったばっかだろ、高校生活まだ一年も残ってんだよ、これからまだまだ色々あるんだよ、思い出作るんだよ!!」
くそったれな親父だけど、それだけじゃない。
けれど親父は戻ってこない。
俺の人生から永遠に消えちまった。
麻生はまだここにいる、今ここにいる、今ならひきとめられる、こっち側に引き戻せる。
「今ここで終わっちまったら麻生、俺おまえ恨むからな、死にたくねー俺巻き添えに無理心中した傍迷惑なダチだって死んでも恨むからな、地獄で一生呪い続けてやっから覚悟しろ、あの世まで付き纏ってやる!」
「ぞっとしねーな」
麻生は力なく笑う。
叫びながら怒鳴りながら体当たりを続ける、ガンガン衝撃が炸裂する、震動が骨に響く。
激突、また激突、全身が痛い。
爆弾はじりじり着実に手前に乗り出している。
もうちょっとでおちてきそうだ、でもとどめの一撃が足りない。
「お前と手錠で繋がれ心中なんてしょっぱい死に方ごめんだ!」
「こっちこそ」
「じゃあがけ!」
「無茶いうな、疲れたんだ」
嘘じゃない、本音だ。
麻生は本当に疲れきってる。
その証拠に腕が動かない。ナイフで切り裂かれた傷口からは失血が続く。
指一本動かすのもだるいらしく、震動が伝う給水塔に背中を預け、無造作に四肢を放り出す。
「ーーーーーーーーーっ、あきらめーねからな!!」
「どうしてそんなに」
「生きたいからに決まってんだろ!!」
即座に言い返し再突撃、給水塔全体が揺れ眩暈が襲う。
押して引いて蹴って蹴り上げて体当たり、巨大な給水塔に挑戦しつつ、怒り狂って叫ぶ。
「生きたいんだよ俺は、お前と一緒に!せっかく出会えたのに、やっとできたダチなのに、じゃなくって、ああくそ正直わかんねーし恥ずかしいよ自分でも何言ってっかわかんねよ、俺が一方的にダチだと思い込んでるだけでお前にとっちゃどうでもいいのかもしれない、どうでもよくねーのは俺だ、俺たちまだ出会ってたった七ヶ月だ、たった七ヶ月ぽっちっきゃ付き合ってねーんだよ、まだまだ読ませたい本たくさんある案内したい穴場たくさんある、なのにこんなとこであっさり死んでたまるか、心残り多すぎだ、お前はいいのかよ麻生、誕生日に贈った本読みきったのかよ!?」
朦朧と濁り始めた目に理性の光が点る。
「黒後家蜘蛛の会、お前の十七の誕生日に俺が贈った本、どれにしようか棚の前で三時間も迷った!あの本最後まで読んだのか、あとがき解説までちゃんと読んだのか、読んでねーのに死ねるのか、だったらお前の本への愛たいしたことねえな、俺のミステリへの愛のが断然上!!」
勝ち誇り、やけっぱちの哄笑をあげれば、聞き捨てならねーと麻生が身をおこす。
梯子に縋って上体を起こした麻生が剣呑に睨んでくるのを無視し、ガンガン給水塔を蹴り付ける。
「どーしたくやしいだろ、自分の負けだって言ってみろ、素直に敗北を認めろ!お前の本への愛って結局その程度だったんだな、結末読まずに死ねる程度のあっさいもんだったんだな!!俺なんかこないだ買った新刊まだ読み終えてなくて、いいところで中断したからもー結末が気になって気になって眠れないね!!」
「………もう少しで読み終える……」
「はい負け!てことはまだ読み終えてないんだ、なのに死ねるんだ、へーお前の本への愛ってホームズが刻んで詰める煙草の葉っぱくらい薄っぺらいね、関口に対する榎さんの友情くらい軽薄で不誠実だね!!!」
スニーカーの靴裏に衝撃が爆ぜる。あともう少し
轟音。
「………言いたい放題言いやがって」
無理を押して立ち上がった麻生が、給水塔に蹴りをくれる。
「!?危ねっ、」
腰が前に泳いだ刹那、するり手錠が抜ける。
手首の貧弱さ間接の柔軟さに加え執拗に唾をすりこみ滑りをよくしたのが利いたらしい。
だが代償は大きい。
前に踏み出た反動で輪抜けが成功したはいいものも手首をくじき、激痛が火矢の如く脳髄を貫く。
ヤジロベエの如く傾ぐ爆弾は落ちそうで落ちない、どころか麻生の一撃のはずみでこてんと反対側にひっくり返っちまう。
「いらんことしい!!」
舌打ち。
横に転がったナイフを奪い、捻った手首の痛みをごまかし鉄梯子を掴み足をかける。
カンカンカン、靴底で梯子を蹴って素早く上る。屋上のさらに一番高い場所、給水塔のてっぺんをめざす。給水塔の頂点に手を付き一気に体を引き上げる、前のめりに倒れこんだ鼻先に爆弾、夢中で蓋を取り外す。
「どっち!?」
ほかより一回り太い赤と青の導線が存在を主張する。
生か死か究極の二択。
不正解を選べば即死。
「爆弾の中ってほんとこんななってんだ、映画で見た通り……じゃなくておい、麻生、どっちだ!?これってあれだよな、どっちかひとつ正解で、間違った方切るとドカン!だよな、ちょ、マジかよ洒落になんね、俺こういうのだめだって弱いんだってツキのなさにかけちゃ関口巽をも上回るいやこの場合は下回るか、あーどっちもでいいよ今大事なのは爆弾、赤と青どっち!?」
ばっと下を向きぎょっとする。
「大丈夫か!?」
麻生が倒れていた。さっきの蹴りで余力を使い果たしたか、貧血か。
携帯の液晶は23:58を示す。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー気合で二分もたせろ!!」
俺、すでに涙目。もう泣きたい、かなり本気で。
ナイフの刃を青にあて赤にあて忙しく移す。
どっち?青、赤?
力一杯投げ捨てる?
駄目だ俺の腕力じゃ途中で落ちる、いまさら給水塔おりてフェンスに駆け寄る時間ない、距離を稼げなきゃどっちみち巻き添えだ。
究極の二択、これで運命が決まる。もうやだなんだってこんな目に、畜生どうせへタレだよ俺は、今だって怖くて怖くてちびっちまいそうで膀胱ぱんぱんだよ、手は汗でぬめってナイフ滑りそうで、体中巨大な心臓になっちまったみたいにばかでかい鼓動が轟く。
極限の興奮と緊張に喉が渇く。
唾なんか一滴も出てこねえ。
瞬きも忘れ爆弾を凝視、ほかより一回り太い赤と青のコードを見比べ、そしてー……
閃き。
即座に決断。
刃に圧力を加え、片方のコードを切断する。
コードはあっけなく切れる。
一生分の体験を濃縮したような二分間。
比喩じゃなく一秒ごと寿命が縮まっていく戦慄。
タイマーの時刻表示が止まる。
00:00:03。
携帯をひったくり時刻を確認。
1/1 00:00:00
膝から下の感覚がねえ。
手、まだ震えてる。
ナイフを切る瞬間はとまっていた震えが、安堵とともにまたぶりかえした。
携帯を胸に抱き、爆弾を見る。青のコードが真ん中でプッツリ切れていた。
ヒントは麻生が巻いていたマフラー。
『おまえ、アースカラー似合いそうだから』
麻生はぼろぼろのマフラーを拾って帰った。
のみならず、わざわざ屋上に巻いてきた。
月光に冴え冴え映えるマフラーの色は………青。
「………はは」
俺ならわかると思って、
勘付くと思って。
むしろ俺が真っ先に気付くべきヒントだった。
「起きろよ、麻生」
「う………」
給水塔の上から呼びかければ、ぴくりと腕が動く。
薄く目を開けたその顔にむかい、携帯を掲げ笑ってみせる。
「ハッピーニューイヤー」
液晶の時刻表示に目を移し、力尽きたように瞼を閉ざす。
「………爆発、しなかったな」
「ヒント、わかったよ」
「解除したのか」
「ヒントくれたから。……マフラー締めてくれたんだな」
「かっこ悪ぃ」
マフラーのことか俺のことか自分のことか、それ全部ひっくるめての台詞か。
屋上に手足を投げ出し、月が浮かぶ夜空を仰ぐ麻生をよそに、手で膝を支え立ち上がる。
「そだ、救急車……」
携帯に番号入力、通話ボタンを押す。
もうだいじょうぶ、全部終わった。
年が明けた。爆弾は解除成功、悪趣味なゲームも終了。
俺たちはまた日常に復帰して今までどおり……
何者かが鉄扉が開け放つ。
静まり返った屋上に乱暴に鉄扉を開け放つ音が轟き、大気がさざなみだつ。
「……やってくれたね、麻生くん」
敷島がいた。
戻ってきた。
なんで?
「本物の遺書はどこだ?」
歩きながら五指を広げる敷島、夜風に吹き散らされ舞う紙片。
ぱらぱらと、ぱらぱらと、俺の鼻先にまで流れてくる。
封筒ごと破り捨てた手紙を宙に吹き散らし大股に歩みがてら駆け足になり、猛然と突進。
「麻生!!」
叫ぶ、だが遅い。
携帯を懐に突っ込み給水塔から風切り飛び下りる、靴裏から骨貫く衝撃、固い地面に着地、痺れを堪えふたりを追う。
麻生の手錠を外し、後ろ襟引っ掴みフェンス際へひきずっていく敷島。
「……やっと気付いたのか、遅いんだよ。ここで開けてりゃよかったのに、あんたときたら……本当に臆病者だ。俺たちに見られるのが怖かったのか?だから一人になってから、こっそり開封したのか。中身びっくりしたか」
「びっくりしたともおおいに、まさか私が採点した古典の答案がでてくるとはね。一体いくつフェイクを用意してるんだい?」
声音はおだやかに、しかし内に憤激を秘め、麻生の胸ぐらを掴みぐいぐい力の限りフェンスに押し付ける。
麻生の背がフェンスを乗り越える。
「!!やめ、」
床を蹴り跳躍全力疾走、疾駆する視線の先、敷島に首を絞められフェンスから乗り出た麻生が邪悪に笑う。
敷島の顔に殺意が爆ぜる。
握力と握力が強まり、麻生の体がぐらり傾ぐ。
墜ちる、
落下。
「ーーーーーーーーぁあああああああああああああああああああああぁああああああああっ!!」
絶叫。
フェンスに乗り出し滑りゆく腕を掴む。
腕が抜けそうな衝撃、激痛。
捻った手首でフェンスを掴み、なかばフェンスに乗り上げた前傾姿勢で不安定な均衡をとり、完全に外に出た腕で麻生をキャッチ。
腕一本に俺と麻生と二人分の体重がかかる。
下方から吹く風が前髪を煽り、覗き込んだ闇の深さ、地上までの距離に息を呑む。
「………ッ、でぇ……麻生、早く、あがってこい……この体勢キッツぃ……腕抜けそ……」
「遺書を渡すんだ」
後ろに気配、耳朶に触れる低い脅し。
頬にひやりナイフが擬される。
さっきと同じパターン。しかし今度は本気の度合いがちがう。
「圭の遺書はどこだ。まさか持ってきてないなんて言わないでくれよ、君の脅しを真に受けてはるばるやってきた私がばかみたいじゃないか」
「この状況見てそんな……あんたほんとにいかれちまったのか、教え子が腕一本でぶらさがってんだぞ引き上げんの手伝えよ、御手洗高一お人よしな教師の評判は紛いもんか!」
「俺が死んでくれたほうが都合がいいんじゃないか、あんたは」
麻生が皮肉る。
腕一本で宙吊りで、足元にはぽっかり虚空が口を開けて待ち構えてるのに、どうしてこんな冷静でいられる?
敷島も麻生も理解できない。
こめかみにぷつぷつ脂汗が浮かぶ。
腕が抜ける激痛に奥歯を食いしめ抗い、麻生の腕を掴む。
「遺書を渡したまえ。宙吊りでも腕は動くだろう」
「自分が刺したんじゃないか」
「動くはずだ。試してみたまえ」
麻生の痛みには頓着しない口調で、ゆったり促す。
「この野郎…………」
激痛と憤激と憎悪と激情が荒れ狂う。
生理的な涙にしめり、血走った目で余裕ぶった敷島を睨みつける。
俺の頬に押し当てたナイフをすっと引く。皮膚が裂け、顎先へと血が滴る。
それでも麻生が言うことを聞かないとみるや話題をかえる。
「……どうやって圭の遺書を手に入れたんだ。死体はしらべたのに」
「葬式の夜。圭ちゃんの机の引き出しから」
「隠匿したのか?」
敷島が軽く驚く。
そんな敷島を鼻先で笑い捨て、言う。
「警察はあてにならない。俺の手で殺してやるつもりだった」
手首が痛い。腕が痛い。気を抜くとふっと意識が遠ざかる。
「君は圭のなんなんだ」
「さあな。そういうあんたは?」
「………………」
慙愧の面持ちで押し黙る敷島を挑発する。
「理解者?保護者?恩師?恋人?愛人?」
「黙れ」
「答えられないってことは生徒と教師の一線こえた負い目があるんだ」
腱が焼き切れそうな痛みに顔がゆがみ、大量の脂汗が滴り、床に染みを作る。
「殺す、とか……簡単にいうなよ……」
苦痛に濁った声をようやっと絞れば、それで這い蹲る俺に初めて気付いたとばかりにふたりの視線が向く。
「本気だ。梶、敷島。少なくともあんたと梶のふたりは、俺の手で……俺が作った爆弾で始末する気だった。実際こいつが余計な事さえしなけりゃそうなってた」
「余計な事じゃねえ」
「もう一歩だったのに。……ここに呼んだのは失敗だったかもな」
腕を掴む俺を見上げ、麻生が笑う。夜に墜ちていきそうな儚く不安定な笑み。
「大した名探偵だよ、お前は」
「俺は証人か。俺の前で敷島の本性を暴き立てたくて御手洗高に呼び出したのか」
「……まあ、それもあった」
屋上は法廷だった。
麻生は俺を検察側の証人に仕立て上げようとした。
証人に指名された俺は、その働きを十分に果たせただろうか。
自信はこれっぽっちもない。
付け焼刃の推理で真犯人をあてたところで、達成感とも爽快感ともさっぱり無縁だった。
ただ、胸が痛い。
幻滅、失望。
敷島に裏切られた事が、麻生にだまされたことが、こんなにも。
「遺書を渡せ」
「俺の死体から回収したらどうだ?圭の死体も検めたんだろ。梶も変態だけどあんたも負けず劣らず変態だな、屍姦でもするつもりだったか」
「馬鹿っ挑発すんな、状況わかって物言って」
喉の奥から裂かれた絶叫叫をしぼりだす。
敷島がナイフを振り下ろし俺の手を刺す。
「秋山!!」
仰向く麻生の顔に血がとびちる。
痛い痛いなんてもんじゃねえフェンスの根元に掴み縋る手の甲にナイフで切り付けられ深々と、指の間に血が滴る、脳裏が真っ赤に染まる、絶叫、悲鳴、全身の毛穴が収縮しドッと脂汗がふきだす。
「……乳首に安全ピン刺されるのと比べ物になんねー痛さ……はは……」
「次はどこを刺そうか」
敷島がナイフをもてあそぶ。
俺の新鮮な血と梶の乾いた血がこびりつくナイフを間近に見て、恐怖と嫌悪に胃が縮む。
「腕か、足か、背中か」
「………先生……」
「まだ私を先生と呼んでくれるのかね?ありがたいね、だが期待には応えられない。……もっとも麻生くんの心がけ次第だが」
優しげな笑みでナイフを扱う。
「秋山から離れろ」
「遺書が先だ」
「……………」
「死んだ人間と生きてる友人、どちらをとる?」
「俺の中では死んでない」
「ならば言い方をかえよう。君と私の中で生きてる彼と、これから死のうとしている彼と、どちらをとる?」
敷島が狂気と紙一重の聖者の笑みをたたえつつ、ジャージの上から俺の背筋にそってナイフをおろす。
「………は………っく、ぁ」
刃がふれ、ジャージが裂ける。
寝かせた刃が裾を払い、内側へともぐりこむ。
背中にもぐりこむナイフの冷たさにびくりと身がすくむ。
必死にフェンスを掴み、もう一方の手で懸命に麻生を引き上げる。
肌を這うナイフの冷たさが絶望を伝える。
「秋山に手をだしてみろ。殺してやる」
「宙吊りでなにができる?せいぜいそこで友達が切り刻まれるのを見てればいい」
「圭ちゃんだけじゃなくて秋山も殺すのか」
「いまさら怖くはない。躊躇もない。私はもう人殺しだ。……圭を死に追いこんだ時からね。ああそうだ、梶先生は『人』の勘定に入らないから彼だけなら人殺しとは呼べないね。鬼畜殺しかな」
諦観を帯びた憫笑。
現実と乖離し、妄想の世界をさまよう敷島と視線を絡め、ゆっくりとコートの内に手を入れる。
三通目の四角い封筒。
「偽物じゃないだろうね」
「中身は本物だ。あんたが来る前に入れ替えた。……確かめてみろ」
封筒が手渡される。
受け取った封筒を感慨深げに見詰める敷島。目に沈痛な光が閃く。
「開けないのか」
「……………」
「勇気がないか。ぼろくそ叩かれてるかもって?卑怯者、腰抜け、裏切り者、偽善者。好きなのを選べ」
不安定な体勢でせせら笑う麻生を一瞥、再びナイフを振るう。
「ーあっ、ぐ!!」
「秋山!!」
今度は上腕。
ジャージが破け朱線が斜めに走った素肌が覗く。
熱と痛みと悪寒で意識が朦朧とする。踏みしめた地面からひしひし冷気が染み骨が凍て付く。
汗でぐっしょりぬれた前髪が額にへばりつく。
「……………………殺してやる」
麻生の低い声。
「梶は爆弾で済ませた。あんたにはそんなずるしない、直接殺してやる。あんた、本気で逃げ切れるとおもってるのか?六年前はなるほど自殺で処理された、だけど今度はれっきとした他殺だ、警察があんたを見付けだすのは時間の問題。刑務所に入れば安全?俺の手が届かない?まさか、なめてもらっちゃ困る。絶対にあんたを殺す。どんな手を使っても殺す。圭の味わった苦しみ、秋山が受けた痛み、あんたにたっぷり味あわせて殺してやる」
馬渕の手。
全部の爪が剥がれた指。
「……馬渕になにしたんだ……」
熱っぽく荒い息を吐きつつ、ずっと気になっていたことを問う。
ずっとひっかかっていた、馬渕の異常な怯えようが。俺をいじめてた連中の豹変ぶりが。
「……ある快楽殺人者がいた。そいつは真性のマゾヒストで、自分の肉体を傷つけ痛め付けることで快楽をえていた。ペニスに釘を打って絶頂に達する手合いだ。けどその真性マゾも、指の生爪を剥ぐのだけは断念したんだそうだ。指の先端には神経の束がある。爪を剥がれると死ぬほど痛い」
「………お前………」
「世の中にはたちが悪い連中が大勢いる。他人の痛みを想像できても、自分の痛みじゃないならどうでもいいと割り切って、かえってそれを楽しむ連中だ。金さえ渡せばなんでもやる手合いだ。夏休み中、金で雇った奴らにボルゾイの仲間を襲わせた。……馬渕の爪を剥いだのは俺だけど」
「どうしてそこまで」
「さわったろ」
「は?」
俺を背後から組み伏せたのは馬渕。
「去勢だよ」
そう言って俗悪に醜悪に笑う。良心が死に絶えた笑み。
麻生の腕を掴む手から力が抜けていく。
絶句した俺の背に密着しナイフを首筋に擬す敷島に対し、宙吊りの麻生がおぞましい脅迫を続ける。
「あんたは剥ぐだけじゃすまない。まず爪の肉に熱した針を深くさす。何本でも、刺せるだけ刺す」
「やめろ麻生、」
「手足の指を針だらけにしてやる。ライターオイルをぶっかけて、あんたの貧相なアレを燃やしてやる。もう二度と悪さできないように去勢してやるよ」
「やめてくれ」
「ガラスの欠片を口に詰めてガムテープで塞ぐ。殴る。口の中は切れて血だらけ、ガラスを呑んで喉は」
「やめてくれ、それ以上言うな!!」
聞きたくない聞きたくない聞いていたら頭がおかしくなる引きずり込まれる
邪悪で異端な。
狂気と憎悪を飼い馴らし飼い殺し。
六年前麻生の胸の内に播種された殺意は今や飽食を知らぬ怪物の如く育ち、宿主そのものをのみこんでしまうほど深淵を広げていた。
眼鏡の奥の目に底冷えする光をたたえ、淡白な表情には不釣合いな歪さで口元をねじる。
「殺してやる」
「どうやって?」
「俺が生きてる限りいくらでも方法はある、安心なんかくれてやらない、俺の大事なものを傷つけた。警察?逮捕?くだらない、殺人罪は最高で懲役十五年。無期懲役は無期じゃないんだ、上限があるんだ。人一人殺したら平均八年か、あんたはたった八年で出てくる。仮に死ぬまで刑務所にいたところで、それが?あんたが刑務所にいれば死人が戻るのか、あんたがめちゃくちゃにしたものがもとに戻るのか。戻らない、戻るわけがない、俺はそれを知ってる。戻らないんだよ時間は、どんだけあがいて暴れたって絶対戻ってこないものがあるんだよ」
「……知ってるよ、私も」
敷島が微笑む。目は笑っていない。
俺の首をナイフでなめながら、深沈と冷えた光を湛えている。
「俺の大事な人間を殺した人間を殺したところで、心は痛まない」
「麻生、」
「痛むような心は持ち合わせない」
「麻生、」
「俺の大事な人間以外はどうなったっていい、償えとは言わない、詫びろとも言わない。ただ、死ね。苦しみぬいて死ね。贖罪も謝罪もいらない、俺はただ殺したい、俺の大事なものを、ひとを、めちゃくちゃに壊して最悪の死に追い込んだ人間を殺したい。捕まろうが裁判になろうが刑務所に入れられようが……」
「人殺しちゃいけねえ理由なんてわかんねえよ、でもお前が人殺しちゃいけねえ理由ならわかる!!!」
麻生の目が動く。
衝動に駆られ知らず喉も裂けよと叫んでいた。
ずりおちる腕をにぎりなおし、ぎりっと容赦なく指を食い込ませ、フェンスに乗り上げ転落寸前の勢いで叫ぶ。
「……お説教か?人を殺しちゃいけない理由を即答できなかったくせに、いまさら」
息を吸い、嗤う。
「世の中には死んで当然の人間がいる」
梶のように
ボルゾイのように
敷島のように
「あのビデオを見たならいやでも納得するはずだ。泣くとうるさいからと赤ん坊の口にガムテープを貼る強盗、レイプした女の数を自慢する男、遊び半分のリンチで同級生を殺した奴、陰湿ないじめの主犯。梶のようにボルゾイのように敷島のように沢山の人間を不幸にしておきながらのうのうと生き続ける悪党、人の痛みを想像できても興味がない人間」
嗚咽する久保田
お母さんと呼ぶ女子中学生
埃っぽい闇に沈む廃工場を狩り立てられ逃げ惑う大勢の被害者たち
「殺されて当然なんだ、連中は」
思い出したくない。
何も言い返せない。
視聴覚室で見た悪夢の映像は悪夢じゃなくて現実で梶が趣味と実益をかね撮りためた犯罪の証拠、思い返せば猛烈な吐き気が襲う、久保田の泣き顔が少女の泣き顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃの他の被害者の顔が網膜に焼き付いてはなれない。
一生忘れられない
「お人よしが人殺しを擁護するか?生きてる価値のない人間なんて世の中にはひとりもいない、生まれてきた意味のない人間なんてひとりもいないって性善説の理想論を唱えるか?」
「……お前の言う通り……世の中には、生きる価値と資格のない人間もいるかもしれない」
世の中には生きてる価値のない人間が絶対的にいる。
罪を犯せど裁かれず
人を殺せど殺されず
自分が人殺しだという事実さえ忘れおもしろおかしく暮らすもの
ボーダーラインをあっさりこえておきながら代償も払わずこっち側にとどまろうとするものたち。
「赤ん坊の口にガムテはった強盗も……誘拐犯も……梶も、ボルゾイも、殺されたって文句は言えねえ。自業自得」
「殺していいだろ」
「駄目だ」
「殺したい」
「駄目だ」
「殺させてくれ」
「絶対駄目だ!!」
「なんで」
「俺が哀しいからだ!!」
眼鏡の奥、麻生が目を見開く。
俺は続ける。
体の底にたまったもの、腹の底に渦巻くもの、全部全部吐き出す勢いで沸騰する感情を一挙にぶちまける。
「裁判でさらしものになんのが哀しい、刑務所いれられて離れ離れになんのが哀しい、遺族に憎まれんのが哀しい、でも一番哀しくて悔しいのは麻生譲ってちゃんとした名前があんのにお前をよく知らねえヤツらがその他大勢の人殺しの一人としてしかお前を見なくなることだ、呼び名が人殺しになっちまうことだ!!」
「たいしていい名前じゃない」
「俺が呼ぶ、譲を呼ぶ!!」
麻生が大きく目を見開く。
まるで、再びその名前で呼ばれることがあるとは考えもしなかったみたいに。
俺は叫ぶ、哀しみも苦しみも全部絞りだす勢いで叫ぶ、六年前こいつを譲と呼んだ誰かに代わって、そいつの面影を蹴散らす勢いで
「俺は譲を譲らない、頼まれたって譲ってやるもんか、大事な大好きな一番のダチを警察に売り渡すもんか、お前の名前を呼ぶ、しつこいくらい呼ぶ!!」
呼ばれるから意味ができる
「麻生譲!!」
譲れない意志をこめ
譲れない一線を引き
ボーダーラインの内側へ、麻生を力づくでひっぱりこむ。
「……俺が可哀相か?」
麻生の顔が、変なふうに歪む。
笑い方を忘れちまった人間が笑ってるような、できそこないの笑い。
目の錯覚だろうか。脂汗が目に流れ込んだせいで、幻覚を見てるのか。
産んですぐ譲ろうとおもったから譲、たしかに哀しい名前だ、酷い由来だ。
でも俺は、同情しねえ。
だって、
「ふざけんなっ、なんでお前が可哀相なんだよ!!」
麻生がひっぱたかれたように顔を上げる。
「もう一度言う、何度でも言う、お前にっ、俺がいてっ、なんで可哀相なんだよ!?可哀相なわけあるか、俺がいるんだぞ、聡史もいるんだぞ、ヤクザな担任も後藤さんも心配してんだぞ、こんな大勢に世話焼かれてるくせに孤高ぶってかっこつけんな!!」
腕が重く痺れ感覚がなくなってきた
それでも俺は、手を放さない
こいつの手だけは放さない
「譲らない、譲れない、これは俺の我侭だ、エゴだ独善だ、だからなんだ、お前が人殺しになったら哀しいんだよ俺は、お前を人殺しにしたくないんだよ、相手がどんな人でなしなクズだろうが殺してほしくねえ、俺が泣くからだ、いやだからだ、お前が好きだから、俺の好きなお前が憎まれんのがいやだ!!」
考えて考えて考え抜いて
出した結論がそれだ。
人を殺しちゃいけねえ理由なんてむずかしすぎてわからない。
そんなもの、ほんとはないのかもしれない。
敷島の言う通り人を殺すと不都合があるだけで、人を殺しちゃいけない理由なんてのは所詮こじつけで、本当の所は誰にもわからないのかもしれない。
だけど麻生、お前が人を殺しちゃいけない理由なら、あるんだ。
「好きな奴を人殺し呼ばわりさせてたまるか、お前には譲ってちゃんとした名前がある、これから何度だってくさるほど呼んでやる、名前の下に容疑者も被告もいらねえんだよ!!」
自分を貶める気か。
人殺しを殺した人殺しに成り下がる気か。
どんな理由があったって、復讐だって、相手が人殺しだって、どんな理屈を捏ねたって
早く腕を掴めと一心に念じる、祈るように切実に念じる、腕から伝わってくる温度に縋る。
無気力に弛緩した腕を必死に掴む。
「譲」
恥ずかしがってる余裕なんかないから、俺は俺にできる精一杯で、大好きな友達の名前を呼ぶ。
無気力に垂れた腕が持ち上がり、ぐっと俺の手を掴む。
固く繋がり合った手に気圧されたように敷島が身を引く。
かすかな動揺が伝わり、首筋からナイフが離れる。
その一瞬を逃さず全力で引き上げる、腕が抜けそうな引力に勝手に悲鳴が迸る、フェンスに乗り上げた麻生を抱きかかえ引き戻す。
ふたり縺れ合って転がる。転倒のはずみに肩と肘そこかしこを打つ。
胸が破裂しそうに鼓動が高鳴り跳ね回り、汗みずくで抱き合い、感触を確かめ互いの体に手を回す。
生きてる。
ああ、よかった。
「このばか」
背中に手が回る。
上背のある麻生が俺の背に手を回し、ガキみたいに抱きしめる。麻生の胸に顔を埋め、浅い鼓動を聞く。
「おかげで殺し損ねたじゃないか」
「死に損ねたの間違いだろ」
減らず口を交わす。どちらともなく不敵な笑みを浮かべる。
背後に忍び寄る気配。
麻生と抱き合って振り返れば敷島がいた、ナイフをだらり垂れ下げ熱に浮かされた覚束ない足取りでやってくる。
殺すつもりだ。
「…………私の時は間に合わなかった」
穏やかな笑みが歪み、崩れ、泣き笑いに似て哀切な表情へと変わる。
白い息を吐きながらやってくる敷島。
足取りに合わせたくたびれた背広が揺らめき、ナイフの切っ先からぽたぽた血が垂れる。
俺の血。
「終わりにしましょう先生」
俺を庇う麻生を目で制し、静かに言う。
敷島は歩みを止めずむかってくる。狂気を感じさせる危険な足取り、絶望に憑かれた目。
だめだ。
殺されかけたってのに、やっぱりこの人を恨めない。
「……おしまいなんです」
敬語が抜けない。
麻生の胸から身を起こし、ナイフを抜こうとする友達の手を宥め、そっと目を閉じる。
「ほら」
刹那、闇を切り裂いて屋上まで赤いランプの光が届く。
「!!」
慄然と立ち尽くす敷島。屋上に居合わせた全員同時にフェンスのむこう、だだっ広い校庭を見る。
煌々と点り旋回する赤色灯。校庭に乗り込んだパトカーが五台、救急車が一台、それぞれから慌しく人がおりてくる。
パトカーから降車した刑事と警官のうち何名かがランプの照り返しを受け屋上に人影を発見、大声で叫び交わし校舎にかけこむ。
じき屋上に辿り着くだろう。
「何故」
目にした光景の不可解さに敷島が呆然と呟く。
ごそりとジャージの懐をさぐり、突っ込んだケータイをとりだす。
「警察につなぎっぱなしでした。会話ぜんぶ丸聞こえ」
カラン。
ナイフを落とすと同時に糸が切れたように膝を付く敷島、完全に戦意喪失した真犯人。
靴音の大群が一挙に階段を駆け上り屋上に殺到、鉄扉が開け放たれ警察がなだれこんでくるまで、俺は黙って麻生に抱かれてやっていた。
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