ボーダー×ボーダー41(完)

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ボーダー×ボーダー41(完)

 屋上から校庭に移ればちょっとした騒ぎになっていた。  開け放たれた校門から乗り込んだパトカーが五台、救急車が一台、赤色灯をめまぐるしく旋回させ夜を染め抜く。  「先輩!!」  パトカーの扉が開き、でかい犬が弾んでやってくる。   よく見たら犬じゃなくて聡史だった。  「おー聡史、ハッピーニュー……いやぁあああああああぁあああ骨折!?」  「俺、おれ、めっちゃじんぱいしたんすよ!!警察に突然電話かかってきて、よく聞いたらぜんぱいの声で、コンビニにいるはずの先輩がなんでか夜の学校にいて屋上から宙吊りで超ピンチで、刑事さんにむり言ってパトカーに乗り込んだんすから!!」  「背骨、背骨折れる!!」  顔に似合わずナイーブな泣き上戸なのだ、この後輩は。  「わ、わかったから聡史ギブ、ちょっと力ゆるめてくれねーと内臓でちゃう」  「せ、せんぱいに万一の事あったらおばさんとマリちゃんに申し訳たたねーしふたりに合わせる顔ねえし、お、俺先輩のこと心配で、先輩いたからこのガッコ来たのに、ガキの頃からずっと先輩は面倒見よくて頼りになって憧れで俺のヒーローで、先輩がもしいなくなっちゃったらって考えたらこ、怖くて、膝がたがたして、図体でけえのにかっこ悪……おれ柔道で鍛えたしからだもでっかいし、先輩の事守ってやるって心の中で!」  えぐえぐしゃくりあげる後輩の頭をよしよしとなでてやる。  扱いは慣れたもんだ。  聡史をなだめる方法は大型犬をあやすのと一緒、とりあえず気が済むまでハグしてやる。  中一の時に身長はこされた。  柔道初めて体格もりっぱになって、頭をなでてやりたくても背が足りなくなった。  だけど外見がどんなにむさくるしくなっても中身は昔のまんま、俺のあとついてまわった小学生の頃とおなじ純粋で心配性な聡史だ。  ……久保田ってダチができてちょっとは先輩ばなれしたとおもったんだけどなあ。  「……俺、先輩の一大事に警察署にいて、そば啜ってて、なんもできなかった……情けねー……」  「あー……ずるずる啜ってたな……ひとが飢えてるのに」  「すびまぜん」  「怒ってねえよ。ちゃんとむかえにきてくれたじゃん」  赤く泣き腫らした目で謝罪する聡史の頭をぽんと叩く。  聡史がはにかむように笑う。つられて俺も笑う。  「俺、先輩のそういうとこ大好きっす」  「よせよ、改まって……照れるじゃん」  「というか先輩が大好きっす」  「?二度くりかえさなくていいよ」  「いやだから今のは真剣な」言いかけやめ、何故かしょげる。変な後輩。  ほのぼのぬるーい空気が流れる中、ぐちゃぐちゃに泣きぬれた顔を上げ、聡史が目を丸くする。  「あ、麻生先輩もいたんすか」  「俺はおまけか」  俺の隣にやってきた麻生が憮然と言う。  コートを脱ぎ、上腕の傷口に純白の包帯を巻いている。さっきまで警察と一緒に到着した救急隊員の処置を受けていたのだ。  「怪我はどうだ?」  「大した怪我じゃない。何針か縫うだろうけど」  「病院いかなくていいのか」  「ひとのこと言えんのか、そのなりで」  麻生が顎をしゃくる。  言われ、はたと戻り自分の身なりを確かめる。  ジャージはあちこち切り刻まれ血が滲んでいた。  捻挫した手首は湿布で冷却中。  頬の切り傷にはバンドエイドを貼り、袖をからげた腕に麻生と同じく包帯をぐるぐる巻き。  ナイフで刻まれた背中は熱を帯び痛みを訴える。  正直立ってるのも辛い状態だが、聡史を心配させたくない男気と、かっこ悪いとこ見せたくねー意地と見栄で虚勢を保つ。  自分の酷いなりを見おろし、憂鬱にため息を吐く。  「あ~……ジャージ買い換えなきゃな」  「せこい。開口一番それか。服より自分の心配しろ」  「血の染みクリーニングでおちっかな」  「聞いてねえし」  「待てよ、こないだ読んだ本に上手い血の染みの落とし方のってたような……ここまで出かかってんだけど」  こめかみをつつき悩む俺を見て、処置なしと麻生が首を振る。  「透ちゃん!」  「ユキちゃんもきてたのか」  聡史に遅れること数分、乗せてくれた刑事に丁寧にお辞儀をしてから聡史の妹のユキちゃんがやってくる。  俺の愚昧とちがって相変わらず素直そうで可愛い。  爪の垢とは言わないから、せめて枝毛の一本でも煎じて飲ませればうちの妹もユキちゃんのように素直で可愛くお兄ちゃんと懐いてくれるんだろうかと虐げられる兄の現実逃避な妄想がふくらむ。  事件に巻き込まれた……実際そうなんだけど……ような俺のなりを頭のてっぺんから爪先まで見詰め、ユキちゃんが心配げに顔を曇らせる。  「透ちゃん、だいじょうぶ?どこも痛くない?」  「この通りぴんぴんしてるし、歩いて帰るよ。ママチャリもとめてあるし」  「大変だったんだよ、きょうは一日。お母さんに頼まれて買い物いったらちかくで爆発あって、おにいちゃんのガッコの先生だっていうから見にいったら、警察の人に連れてかれちゃって……でね、ずっと警察にいたの」  「そか。刑事のおじさんに怖い事されなかった?」  ユキちゃんと話すときの癖で、ひょいと屈み視線の高さを合わせる。  ユキちゃんに限らなくても子供と話す時の常識だ。  「ううん、全ッ然。優しい婦警さんもいたし、大丈夫だったよ。お兄ちゃんはびびってたけど」  「余計なこと言うなユキ」  「待合室のソファーで膝抱え込んでたのはホントの事じゃん。私すごく恥ずかしかったんだから。酔っ払いの人もじろじろ見てくるし、逃げちゃだめだー逃げちゃだめだーってひとりごとうるさいし。しかも似てないし」  「うるせー」  「それでね、順番くるまで待合室でおそばご馳走になって待ってたんだけど……ついさっき、電話がかかってきて。刑事さんたちがばたばたしだして。なんだろうって近付いてみたら、電話から透ちゃんの話し声が聞こえてくるからびっくりしちゃった。おにいちゃんパニクって大変だったんだよ?待っててください先輩今すぐ駆け付けるっスーってパトカー乗っ取らんばかりの勢いで、刑事さんに羽交い絞めにされて後ろに放り込まれて」  「電話の向こうにいるのは俺の大事な先輩だって言い張ったら乗せてくれたっス!」  「きっとおにいちゃんにパトカー壊されるのいやだったんだよ」  なるほど納得。  署で待たされ中の聡史とユキちゃんがなんでここにいるか勘繰ったが、電話の声から俺を特定し、刑事に無理言ってパトカーに乗せてもらったらしい。  警察も警察で、正体不明の通報相手がたまたま場に居合わせた高校生の知人とわかれば、行きがかり上連れてこざるをえまい。  「それで先輩、警察署でだれに会ったとおもいます?意外な人物……」  「秋山、麻生!!」  含みありげな聡史の台詞をさえぎり、バタンと開け放たれた車のドアから意外すぎる人物が駆けてくる。  「先生!?」  たった今、聡史とユキちゃんが乗ったのとは違うパトカーの後ろから転げ出たのは、なんと俺たちの担任。  極道まがいの強面は相変わらずだが分厚いどてらを羽織り、右手に割り箸、左手にどんぶりを持ったまぬけなかっこは殆ど体当たりのコント。  真冬にサンダル履き、しかもどてらの下はジャージというずぼら出不精極まれりないでたちの担任が正面に来るのを待ち、全力で突っ込む。  「ーってセンセ、なんで大晦日にラーメン!?邪道!!」   「ラーメンをばかにするなラーメンを、先生の友人経営で大晦日でも出前を受け付けてる良心的な店だぞ」  「それはどうでもよくて!待て、なんでジャージ、しかもどてらとの組み合わせどうなの!?」  「お前こそなんでジャージだ、まねするな」  「まねじゃねえよ、俺はうちじゃいつもジャージって決めてんだよらくだし落ち着くんだよ!」  「俺も一緒だ、休み中は大抵ジャージでごろごろしてる」  「先生と同レベルなんてショック立ち直れねー、HP一気に50もってかれた!!しかもラーメン啜りながらしゃべるなよ、ひとの話真面目に聞けよ!!」  「お前だってホームルーム中俺の話聞いてないだろ!!」  不毛すぎる口論にドッと疲れる。  「先生はなんでここに?」  「梶先生に大事があったと警察に呼ばれたんだ。マンションで爆弾が爆発したとか……あー、刑事ドラマでよくある……同僚に事情聴取ってヤツか?警察の話だと梶先生は腹を刺されてたっていうし、他殺の線も疑われてな。一時間前に連絡網が回って、教師全員に召集がかかったんだ。ひとり、古典の敷島先生にだけ連絡とれなかったんだが……」  なにげなく発した敷島の名に息を呑む。  「しかしまあ晩飯もまだだし警察のご好意とやらで出前をとってもらったんだから、箸付けると同時にばたばたしだしてな。沢田の話だとお前の身に大変な事があったっていうし、なんかったら俺が責任とらせるってんで、めんどくさいのおして一応来てみたんだが……」  ラーメンを食べ終え「馳走さん」と合掌、どんぶりを綺麗にからにし俺たちを交互に見比べる。  「だいじょぶか?」  いかにも気遣うのに慣れてないぎこちない口調で言う。  多分、生徒に本心を見せるのが苦手な人なのだ。  「……とりあえず、生きてます」  「そうか」  間一髪、刑事が鉄扉をぶち破って刑事がなだれこんでくれたおかげで命をとりとめた。  敷島は刑事数名に取り押さえられ手錠をかけられた。  抵抗の素振りはなく、逃げられないと観念したのか至って大人しいものだった。  屋上は封鎖された。  校庭は喧しい。  怒号の応酬に煽られ、殺気だった喧騒が場を包む。  「刑事さんがね、近くの派出所からすぐパトカーだしてくれたの」  「間に合ってよかったっす」  「しかし梶先生は災難だったな、大晦日に爆弾が送り付けられて……いや、直接の死因は刺殺か?誰がそんな事……」  担任がひとり言をもらす。俺は聞かないふりをする。俺から話さなくてもじきにわかることだ。  麻生はどうなるんだろう。  梶を殺したのが敷島でも、梶宅に時限爆弾を送りつけた事実は変わらない。  やっぱり罪に問われるんだろうか。  未成年の事情と動機を鑑みて罪は軽くて済むかもしれない。情状酌量の余地は十分にある。  けれど。  実際梶を殺したのが敷島でも、麻生が明確な殺意を持って爆弾作りに手を染めたのは揺るぎない事実であって。  敷島のあと少し訪問時刻がずれていれば、麻生が作った爆弾こそが梶を殺していたかもしれなかった。  「麻生」  ありったけの勇気をふりしぼって呼ぶ。  ここじゃない、どこか遠くを見る麻生を振り向かせようとする。  麻生がかすかに反応を示す。  俺の声で現実に引き戻され、虚空に投じた視線をゆっくりとこっちにー……  「やあみなさん、おそろいで。関係者一同おそろいで、事情聴取の手間が省けてラッキーですな」  バタン。  一番手前のパトカーの扉が開き、胡麻塩頭の初老男がのらくらと歩いてくる。  背広のくたびれ具合と着古しトレンチコートの揺れが侮りがたい。  和製コロンボの風格に不覚にも胸がときめく。  「うちのカミさんがそばゆでて待ってるんでなるだけ早く帰りたいんですが、このぶんだとまーた残業になりそうですなあ。年越しそばは諦めて年越しちゃったそばにしますか」  「うちのカミさんて言った!」  「たしかに言いましたっす先輩、聞きましたっすこの耳ではっきりと!」  おもわず聡史と顔を見合わせはしゃぐ。和製コロンボの見た目とミステリマニアの期待を裏切らない人だ。  コロンボ似の初老刑事はそんな俺らを妙な目で眺めていたが、咳払いで気を取り直し、おっとり口を開く。  「きみが署に連絡をくれたのか」  「はい」  「大変だったね、大晦日に……ところで被害者の梶晴満さんだが、自宅からいかがわしいビデオから押収されてね」  「いかがわしいというと?」  三十路で独身の担任が興奮に鼻の穴ふくらませ、聡史がはっしとユキちゃんの耳を塞ぐ。  「無修正と言いますかね?そういうのがわんさか……しかも、中に犯罪の証拠が混じっていまして。この学校の近くにありますでしょ、廃工場が。映像の状況からすると、どうもそこで撮られたらしい。普通のAVじゃないんですよ、これが。強姦、輪姦……人道的によろしくないたぐいですな」  担任の顔が強張る。  聡史の顔色が蒼ざめる。  耳を塞がれたユキちゃんだけわけがわからずきょとんとする。  「どうも被害者は売春組織の元締めのまねごとをしてたらしい。親がね、地元で有名な建設会社の社長とかで。そこの次男だったんですよ、ガイシャは。後ろ盾、人脈……組織を作り上げるに足るコネはそろってますな。ほかに有力な証言も得られましたし」  「有力な証言?」  探るような担任の言葉に、刑事は聡史へと柔和な視線を転じる。  「沢田くん……だったっけ?」  「はい」  背筋を正す聡史に鷹揚に微笑みかけ、両手をトレンチコートのポケットに突っ込み耳打ちする。  「君の前に取調べを受けていた久保田くんがさっき証言した。同じ学校の先輩に陰湿な暴行、恐喝を受けていた事。主犯は二年の伊集院。他にも大勢被害者がいるそうだ。実は以前からちらほらその手の被害届が出されていてね……恥ずかしながら身内―警察に協力者がいて上に届く前に握り潰されていたんだが、梶の死と久保田くんの証言がきっかけとなって立件できそうだ」  「久保田が被害届を……?」  聡史が言葉を失う。  刑事はひょいと肩をすくめる。  「刑事と接した際の怯えぶりが普通じゃなかったら、これは匂うとおもってせめたのさ。可哀相に、あの子もだいぶ悩んだみたいだ。相当脅されたみたいだね。しかしとうとう口を割ったよ。いや、私らはガイシャの死に関わってると睨んだんですが……実際は自分がされた事を必死に隠していたわけだ」  「刑事さん、久保田になにしたんすか」  聡史の声が険と凄味を含み低まる。  年嵩の刑事に対しても一歩も怖じず譲らず、ここにはいない友達を弁護するように前に出る。  おどけて両手を上げ身をひくや、刑事は眩しげに目を細め笑う。  「誤解だよ、何もしてない。あくまで彼からすすんで話してくれたんだ。だが、ね……まさか点が線に繋がるとはね。久保田くんはあらいざらい話してくれると約束したよ。決断には時間がかかったが、途中何度もちらちらドアの方を見ては、重い口を励まし話し続けた。ドアの外、待合室の長椅子に座る君に勇気を得てね」  聡史から担任へと向き直り、目を眇める。  「梶が手足として使ってた実行犯の中に、おたくの生徒が含まれていたようですな。伊集院とかいいましたか……夏休み中に自主退したそうですが」  「アイツが!?」  「現場に捜査の手が入って、隠れ家として使っていたマンションが分かりました。そろそろ……」  懐で携帯が鳴り出す。  即座に抜き出しボタンを押す。  担任や聡史と接していた時とは別人のような厳しい声で指示を出し、通話を切ってからにっと笑う。  「部下から連絡です。たった今、実行犯一味を逮捕しました。連中、ピザの宅配と勘違いしてあっさりドアを開けたそうです」  ボルゾイが逮捕された。  野卑な笑みを浮かべた刑事の言葉に、膝が砕けそのままへたりこみそうになった。  情けない話、まだ心のどこかでボルゾイの影におびえてたらしい……それにしちゃあっけない幕切れだけど。  刑事は寒さに身をちぢかめ嘆かわしげに首を振る。  「しょうもない連中です。踏み込んだ時車座でピザ待ちながら、さて、なにしてたと思います?ビデオ鑑賞会です。梶が提供した隠れ家にぬくぬくこもって自分らが撮ったビデオを見てたんですよ。バカといいますか、実に呑気なもんです。ばっちり犯罪証拠を掴みました」  「ご愁傷様」  失笑を禁じ得ず俯く。  安堵と自嘲と元同級生への一抹の同情を抱く。  こっそり麻生をうかがえば心なし気分良さそうな顔をしていた。  「ここだけの話、私らも怪しい動きには勘付いていたんです。数年前から地元でおかしな組織が根を張ってるらしいって。ただしなかなかしっぽが掴めなかった。はは、それもそのはず、被害者は地元有力者の息子ですからね……生臭い話、親の人脈やら裏の繋がりやらで捜査の手がなかなか核心にのびなかったんです。死人がでたってのにこんな言い方は不謹慎ですが、今回の事件はいいきっかけになりました。がさ入れの手間も省けましたし。先生には後日くわしく事情をうかがうことになるでしょうね。ま、よろしく頼みますよ」  「はあ……」  担任が気抜けした様子で呟く。  元教え子の伊集院が実行犯として関わっていた事にショックを受けてるらしい……ちょっと気の毒。  なめたように綺麗などんぶりと箸をもったまま、間抜けな対応をする担任の横で、聡史が切実に込み上げるものを噛み締め呟く。  「久保田……頑張ったんだ……」  久保田をはじめとした被害者の傷は深い。  これから警察に取調べを受ける中で、世間の偏見とか中傷とか無理解とかで辛い目にたくさん遭うだろう。  しかし久保田はそれを覚悟の上で、ありったけの勇気を振り絞って自分の体験を話した。  刑事に直接取り調べられたのだけが告発に至った理由じゃない。  担当者の取調べ手腕が優秀だったのもあるだろうが、久保田はきっと、悩んで悩んで悩みぬいて最良の選択をしたのだ。  聡史に恥ずかしくない自分になろうとして。  取調室のドアの向こうで待つ友人に胸を張れるようになりたくて、凄まじい心の葛藤を経て、弱虫を克服した。  「おかしいなっておもったんだ。現場でふざけてただけなのに、大晦日忙しい中、何時間も足どめされて……刑事さんだって暇じゃねーのに」  「君についていてほしかったんだそうだ、久保田くんは。……わがままを責めないでやってくれ」  「あたりまえっす」  子供っぽくあらっぽいしぐさで目から出た塩水をごしごし拭う。  泣き顔を見せまいと唇を噛む聡史の、タワシのような剛毛の髪をくしゃりとなでてやる。  「久保田は強いな」  「自慢の友達です」  聡史が最高の笑顔を見せる。一皮むけた男の顔。  俺がいなくてもこいつはもう大丈夫なんだろうとおもうと、一抹の寂しさが胸を吹き抜ける。  「……ところで君たちふたりは、えーと」  「あ、御手洗高二年の秋山透です」  「麻生譲」  肩を並べた俺たちふたりをしげしげ見比べ、コロンボ刑事が思案げに顎を揉む。  「なんで学校にいるんだね。今は冬休み中だろう」  「あ」   ……まずい、言い訳用意してねー。  説明に窮し、口パクの醜態をさらす。  刑事がますますもって疑念を強め、眉間に縦皺をきざむ。  「夜の学校から通報があって、急ぎ駆け付けてみれば屋上に人影があった。きみたちは体の至る所にけがをして、そばにはナイフをもった男がいた。様子が普通じゃない。しかもあの男……きみたちの近くにうずくまっていた……この学校の教師だそうだが。話を聞いて驚いたよ。梶殺しを自供した」  戦慄が走る。  担任と聡史が顔に疑問符を浮かべる。  刑事はコートのポケットにだらしなく手を突っ込んだまま白い息吐き言う。  「梶は自分が殺ったと全面的に認めた。詳しい事情は署で聞くが……彼も梶が作り上げた売春斡旋組織に関わっていたんだね。六年も前からというから驚いた。母親の手術費を工面するためしかたなく、か……六年間心安まるひまがなかったとは可哀相な男だ」  「可哀相なもんか」  唾棄する麻生に刑事はちょっと目を見開き苦笑い、首を傾げるようにして矛先をそらす。  「ふしぎなのは何故よりによってこの日に、大晦日にかねてよりの計画を実行に移したかって点だ。なにもこの忙しい時期に、ナイフを忍ばせ怨敵のもとへ向かわなくてもいいじゃないか」  俺も疑問だった。  麻生の計画と敷島の殺人がたまたま重なった、はたしてそんな偶然があるのだろうか?都合がよすぎる。  疑問を孕む俺の眼差しと、刑事の追及の眼差しとを同時に受け、麻生がなにか言いたげに表情を動かす。  「それは……」  「ちゃんと歩け!」  言いかけた答えを制し、むこうで怒号があがる。  全員そろって顔を上げ、そちらをむく。  若く体格のよい刑事ふたりに挟まれ連行されていくのは……敷島。   屈強な刑事ふたりとの対比か、悄然とした足取りとうなだれた顔ゆえか、その姿は屋上で対峙した時よりひとまわりも小さく見えた。  パトカーの赤色ランプが気まぐれに照らす顔は一気に老け込み、頼りない足取りに合わせくたびれきった背広が揺れる。  「敷島先生……何故ここに?」  箸とどんぶりを交互の手にもった間抜けなポーズで担任がいぶかしむ。聡史とユキちゃんが兄妹そろって首を傾げ気味に敷島を目で追う。  コロンボがぴしゃり額を叩く。  「私としたことが、そうだ、肝心の名前を言ってませんでしたね。彼が梶殺しの犯人なんですよ」  「は?」  担任の目が点になる。  「は、ははははっははっははは!人が悪いなあんた、よりにもよって敷島先生があの若造を殺したなんて言うに事欠いて……あんたの話で梶がとんでもなく腐ったヤツだってのはわかった、けど敷島先生は違う、敷島先生はこの学校に古くからいて、真面目で、生徒おもいで、俺も来たばっかの頃さんざん世話んなって……あのひとが人殺しなんかするはずないだろう」  「事実です。認めたくないのはわかりますがね」  重ねて抗議の声を上げかけるも、傷だらけの俺と麻生をおもいだし、激情を制して威圧の声を出す。  「刑事さんの話は本当か?そのけがも、敷島先生がやったのか」  敷島は前に回した手に手錠を嵌められていた。  完璧犯罪者扱いだった。  したことを考えれば当然の処遇だが、胸が痛む。  俺は教壇に立つ敷島を知っている、最前列で堂々居眠りする俺を苦笑で見逃してくれた優しい先生を知っている。  全部世を偽る姑息な演技だったとはどうしてもおもえない、信じたくない。  胸の内で痛みが荒れ狂う。  敷島は鈍重な足取りでパトカーへむかう。  歩みの鈍さに痺れを切らした刑事が声をあらげ、手錠を乱暴にひっぱる。  小突かれても抵抗せず、頼りなく傾ぐ。俯き加減の横顔からは一切の覇気が消え失せている。  屋上でナイフを振り上げた時とは別人のような魂の抜け殻ぶり。  パトカーの手前まで来た時、おもむろに麻生が動く。  「敷島」   低く静かに呼びかける。  決して大きな声じゃないにもかかわらず、刑事や鑑識の話し声でうるさい中、麻生の声はよく響いた。  校庭の砂を踏み、蹴散らし、敷島に接近する。  「君、なにを」  部外者の予想外の行動に、血気さかんな若い刑事が気色ばむ。  歩み寄る麻生を制しかけ、「まあまあ」とコロンボにとめられる。  コロンボはコートに手を突っ込み、興味深げに麻生の行動を眺める。  聡史と担任は困惑顔。  俺はというと、気付けば足が勝手に動き麻生の背中を追っかけていた。  両隣の刑事の牽制も意に介さず、ずたずたに切り裂かれたコートで敷島と対峙する。  鼻の高い端正な横顔と黒いコートを鮮烈な赤色が染め抜く。  麻生は抑揚なく促す。  「遺書、開けろよ」  「………」  「また失くしたなんていうなよ。もってるんだろ」  口の端をかすかすに吊り上げ嘲弄する。  敷島は無言。  焦点の合わぬよどんだ目で、皮肉げな麻生の顔を見返す。  「怖いのか」  「…………」  「あんなにほしがっていたじゃないか。……知りたがっていたじゃないか、真実を。あれが欲しくて、わざわざ梶を殺してから夜の学校にきたんだろ。俺がなに企んでるか薄々察しながら、危険を承知でやってきたんだろ」  「……………」  暴風の如き狂気が去り、殺意が沈静した今の敷島からは、俺を戦慄せしめた人殺しの面影が払拭され、そこにいるのはただただ生活に疲れ果てた孤独な男だった。  俺がよく知ってる、気弱で優しい先生だった。  「読めよ」  「……私は」  「怖いのか?」  「……もう終わった。私は……圭の遺書を開く資格がない」  「あんたには圭ちゃんの遺書を読む義務がある」  「ニセの答案までしこんで、本物の遺書を私の手から遠ざけようとした生徒の発言とはおもえないね」  敷島が苦笑する。  目には苦味を帯びた自虐の光。  敷島の皮肉は意に介さず、麻生は無言で歩み寄り、左右の刑事に断りもなく敷島の背広の袷に手を入れる。  「おい、被疑者に勝手にさわるな!!」   被疑者の呼び名が、胸に刺さる。  「いいから好きにさせてやろう」  「ですが警部」  「最後の別れになるかもしれないんだ。教え子と恩師の話をじゃましちゃいけない」  コロンボが積んだ経験と年の分だけでかい度量を示す。……どうでもいいが階級はやっぱ警部だった。  不満げな刑事に挟まれた敷島は、背広の袷を無抵抗にさぐらせている。  スリ顔負けの手際で封筒を抜き取り、敷島の目の位置にそれをかざす。  「座間圭が六年前残した本物の遺書だ。読んでから行け」  遺書はおそらく、梶と敷島が与した犯罪を告発し糾弾する内容で。  「……卑怯者、腰抜け、裏切り者、偽善者。どれだろうね」  「人殺しもくわえとけ」  梶と敷島の犯罪を暴露し、自分を死に追い詰めたふたりを非難する内容に違いない。  警察の前で読み上げれば、過去の犯罪をも暴き立てられる。  敷島はどうしても封筒を開けられなかった。  麻生がいくら挑発し促しても遺書に目を通せなかった。  屋上で俺にナイフをあてた敷島の顔には純粋な恐怖と壮絶な葛藤があった。  敷島こそだれより真実を知るのをおそれていた人間だった。  「その手じゃ不自由だろう。代わりに開けてやる」  そっけなく言い捨て、わざと時間をかけゆっくりと封筒の口を開ける。  中から取り出した便箋には、何度も読み返したらしくくっきり折り皺が付いていた。  几帳面な手付きで便箋を広げる。  文面に目を落とす横顔をランプが血の色に染める。  声をかけるのを忘れた。  便箋に目を落とした麻生の横顔が、あんまり厳しくて、孤独で。  細めた双眸がここじゃないどこかだれかを見ているようで、胸が詰まる。  無言で敷島に便箋をさしだす。  一瞬怖じ、あとじさる気配を見せた敷島に許さず詰め寄り、強い眼光で見ろと強制する。  口を開き、喘ぐようにまた閉じ、一回目を閉じる。  閉じた瞼のむこうで激しい感情が吹き荒れる。  駆け引きに勝利したのは麻生。敷島は圧力に屈し、ゆっくりと目を開け、麻生に歩み寄るー………  真空に吸い込まれるような静寂。  麻生がさしむけた便箋をのぞきこんだ敷島の顔、すべてに疲れきったその顔が豹変する。  「あ……………」  驚愕に目を見開く。  絶望と希望が綯い交ぜとなった泣き笑いに似た表情がやがて歪み、唇がかすかに震える。  一定の間隔で回る赤色ランプが照らした文面は、たった二行、そっけないものだった。  『敷島先生へ    好きでした』  「好きのあとに消したあとがあるだろ。……好きですって書いて、過去形に直したんだ。自分が死ぬことがわかっていて」   人柄が伝わってくる几帳面な文字。  便箋にかすれた鉛筆書き。  乾いた涙のあとでところどころへこんでいる。  生前の圭の涙か  過去の麻生の涙か。  俺にはわからない。  知るよしもない。  「………圭………」  敷島の唇が震え、衣擦れにかき消えそうな、かすかな呟きをもらす。  圭と、敷島はそう呼んだ。  生徒を下の名前で呼んだ。  『圭の遺書を渡せ!』  屋上の絶叫が甦る。憤怒の形相が甦る。別人の如く豹変しナイフを振るう敷島、座間圭の遺書を奪うため躍起になった姿を思い出す。  『圭は優しい子だった。私は圭の特別な存在でありたかった』  静かな妄執を感じさせる口調、  『私の時は間に合わなかった』  後悔と絶望に打ちのめされ、膝を折った姿。  ひょっとして、俺は、とんでもない誤解をしてたんじゃないか?  「遺書じゃなくてラブレターだったんだ」  手紙を畳みながら麻生が言う。  敷島は瞬きも忘れ麻生の手の動きを追う。  「……圭ちゃんはあんたが好きだった。遺書を読んでわかった。最後の最後、恨み言でも泣き言でもなく、どうしても伝えたい言葉がそれだったんだ。全部あんたの妄想、罪悪感が見せた幻覚だよ。びびんなくたって、ナイフ振り回して取り戻そうとしなくたって、圭ちゃんの遺書には最初っから梶の事も梶が作り上げた組織の事も書いてなかった。罵倒も呪詛も一言もなかった。ただ……過去形になってもいいから、想いを伝えたかったんだ」  俺は生前の座間圭を知らない。  麻生がそこまで盲目的に慕う座間圭が、敷島がそこまで執着する座間圭がどんな少年だったか知らない。  ただ、俺に言える事は。  座間圭は死ぬ前に書いた手紙で、呪詛も罵倒も一言も書かず、大好きな人へ気持ちを伝えていた。  死ぬ前にどうしても言いたい台詞がそれだった。自分の口では直接伝えられなくてもいつか知ってもらいたいと、本当の想いを手紙に託した。   優しく真面目で不器用な圭ちゃん。  麻生が大好きだった人。  敷島が愛した少年。  ふたりの心の拠り所。  「……俺の事、書いてなかった。あんたに敗けたんだ」  勝ち負けで語ることじゃないけれど、自嘲的に呟く麻生の声は救いがたい悲哀を帯びているように聞こえた。   一瞬、六年前の麻生が顔を出したようだった。  「俺は多分、あんたに嫉妬してた。圭ちゃんが好きだったあんたに……たった一人、遺書に名前が出たあんたに。だから真実を知りたくてここに来た。圭ちゃんが先生を付けて呼ぶのはここの教師だろうとあたりを付けて、進路を決めた。予想どおり、あんたはすぐ見付かった。正直、こんな冴えない中年のどこに圭ちゃんが惹かれたのか理解不能だったけど……男の趣味、悪かったんだな」  麻生、笑うな。  そんな痛い顔して笑うな。  「血は繋がってないのに、俺と一緒だ」  一呼吸おき、封筒をコートの袷にしまう。  「あんたは勘違いしてる。俺は圭ちゃんの遺書で真相を知ったんじゃない、自力で調べ上げたんだ。執念だよ。中学から、足かけ……五年か。マンションに移り住んで、自由が利くようになってから本格的に調べだした。金には困らなかった。金さえばらまきゃ皆おもしろいように口を開く。金も、コネも、体も、使えるもんはなんでも使った。結果、わかったこと……梶に近付いたのは、直接懐にとびこむのが一番確実に情報を入手できるとおもったからさ」  眼鏡の奥から投げかける視線が茫洋と虚空をさまよう。  「圭ちゃんを自殺に追い込んだやつら、全滅させるつもりだった」  凄まじい執念、復讐心。  目的のためなら手段を選ばず、世界で一番憎む男にも体を売る。  「圭ちゃんは、どうしてあんたなんかを」  麻生の告白に現場が水を打ったように静まり返る。  担任も聡史もユキちゃんも、おおいに戸惑っている。  敷島は深々俯く。  麻生の糾弾をあまんじて受け、全身で懺悔するが如くうなだれる。  「どういうことだね?」  コロンボが動く。  トレンチコートの擦り切れた裾を揺らしふたりに接近、意味深な目で顔色をさぐる。  麻生も敷島も黙秘を知るや長く息を吐き、フケの散った髪を振り乱す。  「……まあいいか。立ち話もなんだし、詳しい話は署で聞くよ。きみにもご同行願うが、いいね?」  口調こそ柔和だが、譲らない意志を秘めていた。  眼光鋭く確認をとる刑事に麻生は頷きもせず、しかし拒否もせず、刑事に背中を押されるがままパトカーに歩を向ける。  「待ってください刑事さん、けがしてるんですよ、病院が先っしょ!?」  「病院行くほどのけがじゃないだろう。手当てなら警察でもできる」  「彼にはほかに聞きたいこともあるしね。……屋上に転がってた黒い箱、あれ、何?おんなじものが梶の自宅から出てきたんだけど」  しまった。  俺の顔色がさっと変わったのを目の端で見てとり、野卑に唇をめくる。  「梶殺しはそこの先生が吐いたけど、爆弾おくった犯人は謎のまま。はて、誰だろうね?君、麻生くんだっけ。被害者宅から押収したテープにおもしろいもんが映ってたんだけど……」  殴りかかるのを我慢した自分を褒めてやりたい。   実際こぶしを振り上げるところまで行ったが、後ろからがしっと手首を掴まれ、よろめく。  振り返ればおっかない顔の担任がいた。  「ジャマすんな先生、生徒が警察に連れてかれよーとしてんだぞ、なんとか言っ」  「俺の生徒に手を出すな」  「は?」  ヤクザな担任の台詞とおもえず耳を疑う。  しかし担任は大真面目な様子で、片手にからのどんぶりをもったまま、獅子吼するが如き気迫に満ちコロンボに立ち向かう。    「麻生先輩を連れてくなら俺も、俺も行くっす!どうせ三時間四時間も警察に長居したっす、このまま徹夜も覚悟の上っす!!」  「私もおにいちゃんと一緒に行く!」  事情がよくわからぬなりに聡史とユキちゃんが加勢に入り、心強い味方を得た担任が共同戦線をはって、刑事たちと揉み合いを始める。  「先生、聡史、ユキちゃん……」  現場が騒然とする。  聡史ユキちゃん担任の三人は喧々囂々刑事とやりあい、コロンボが渋面を作り説得にかかるも耳を貸さない。  ここからが正念場。  担任は野太い雄たけびをあげ太い腕ぶんまわし警察の若造相手に本職ヤクザ顔負けの奮戦を見せ、聡史は聡史で後ろにまわりこみ羽交いじめにかかった刑事に見事な背負い投げをくらわせ、ユキちゃんは「おにいちゃんかっこいい!」と黄色い声援を送る。  ぼんやり立ち尽くす俺の脳裏で、なにかが閃く。  大立ち回りを演じる面々にあっけにとられる麻生、手錠をかけられ立ち尽くす敷島、ふたりの顔を見比べ  『涙を流す肖像画』  『敷島先生へ 好きでした』  もし座間圭が、敷島に恋してたなら?     敷島の身勝手な思いこみじゃなく、ふたりが互いに思い合っていたんだとしたら、証拠があるはず。  俺は可能性に賭ける。    「!?おい秋山、どこいくっ!!」  「先パイちょっ、この状況でトンズラはなしっす、鬼畜っす!!」  「透ちゃん最低、見損なった、マリちゃんにちくってやる!」  ……最後の一言が地味に一番きいた。  理想の妹、ユキちゃんに幻滅されるのは辛い。  不審顔の麻生と敷島と刑事たちと喧嘩中の面々に背を向け、全速力で校庭を突っ切り、土足で校舎にあがりこむ。  めざすは美術室。  床を蹴り、加速し、がむしゃらに肘をふり、息と鼓動を弾ませる。  『敷島先生へ 好きでした』  耳の中でリフレインする声  脳裏に再生される文面  座間圭が本当に敷島と愛し合ってたなら、遺書のほかにも証拠をのこしたかもしれない。  梶に目を付けられぼろぼろにされ、もう死ぬしかないとこまで追い詰められて、でもそれでも敷島を好きだって気持ちが本当だったなら、手紙のほかになにかを残したかもしれない。  肖像画が流す無念の涙。  下に透けて見える真実。  美術室の引き戸をガラリ開け放ちとびこみど真ん中に放置された絵をひったくる、七不思議だとか呪われてるとか関係ない、呪いは実際なかった、七不思議は捏造だった、でも肖像画の顔が汚れてるのは本当だ、この謎をどう解明する?  説明は付く、合理的に。  「絵を隠すなら絵の中!!」  座間圭の素顔をじっくり見てるひまはない。  絵を小脇に抱えまた全速力で走り出す引き返す、胸が苦しい肺が痛い切り刻まれた背中がずきずき熱と痛みを訴え、それでもとまらずいっそう加速し玄関から走り出る。視線の先刑事にパトカーに押さえこまれようとしてる敷島を発見、猛然と砂蹴散らし書けながら待ったをかける。  「先生っ、これ!!」  一同、いっせいに振り向く。  靴裏で砂を削って辛うじて制動をかけ、停止、五メートル離れたパトカーに今まさに乗り込まんとする敷島の方へ因縁の絵を突き出す。  「麻生、ナイフ貸せ!」  「は?」  「いいから!」  当惑する麻生を急かし、片手で絵を掲げナイフを奪う。   圭の絵を見た敷島の顔色が蒼ざめる。  絵にむかいナイフをかざす俺に、麻生が取り乱す。  「馬鹿っ、なにを!?」  「黙って見てろ!」  奇行に走った俺に唖然とする一同。  この際とちくるったと誤解されてもいい。  気色ばむ麻生を鞭打つように制し深呼吸、意を決し絵の上に鋭利なナイフをあてがう。  ナイフに力をこめ、上から下へと表面の塗料を削る。  力をこめおろしたナイフの刃が表面の塗料を削り乾いた絵の具がざりっとこそげおち、六年間、隠され続けた真実が暴かれる。  粉末状の塗料があっさり剥落した下、赤色ランプの光に照らし出された絵を見て、一同息を呑む。  「……座間圭の本当の遺書です」  美術室の肖像画が涙を流すのには理由があった。  美術室に放置プレイされた夜、ちびりそうな恐怖をごまかすため口走った推理は正しかったのだ。  『びびらせようって魂胆で適当ふいてるな?その手はくうか。もし噂がホントなら、トリック仕掛けられてるに決まってる。ナイフで削りゃ下にちがう絵が描かれてるとか、よくあるだろ。推理小説どころかめったに本も読まねーお前らは知らないだろうけどさ』  「絵がひとりでに涙を流すはずない。流すとしたら、理由があるはずだ」    パトカーに乗り込みかけた姿勢で硬直する敷島に向き合い、絵を見せる。    「……………私…………?」  敷島が目を疑う。  座間圭の絵の下から露になったのは、敷島の絵。  「一回絵を描いて、その上からまた別の絵を描いたんです。知られちゃ困る真実を隠すために」  そうまでしても座間圭は本当の想いを伝えたかった。  いつかだれかにわかってほしくて  いや、違う。  座間圭がわかってほしかったのはいつかだれかなんて曖昧な定義じゃなくて、この世でただ一人、本当に愛した男。  命にかえても愛し抜こうとした男。  「六年経って塗料が褪せて、下の色が透け始めた。だからぱっと見泣いてるようにみえたんだ」  圭は美術部だった。  敷島との出会いもまた美術室だった。  顧問代理の敷島と過ごした期間は、圭にとってもかけがえのない時間だった。  「……………あ…………、」  敷島がよろめき、ころび、縺れる足取りで絵に歩み寄る。  今度は刑事も止めに入らなかった。  麻生も、他の人間も口出ししない。こける敷島に手さえ貸さない。  敷島が絵に接近する。  両手に絵を抱え敷島を待つ。  ようやく正面に辿り着くや、手錠で括られた手を絵の前にかざし、そっと触れあう。  座間圭の絵の下に描かれていたのは、敷島の絵だった。  見ているだけで胸が一杯になるような、好きだって気持ちが伝わってくるような、そんな絵だった。  「……座間圭は先生のことが本当に好きだったんですね」  敷島が地に膝を付く。  へたりこんだ敷島の目の高さにあわせ、後ろから絵を支え、ゆっくり地に置く。   ときとして優しさや善意、愛情がひとを追い詰めることもある。  敷島は優しくずるく臆病な人間だった。  六年前、母親の手術費を工面するため梶の犯罪に加担した。  圭もまた敷島への想いから売春に関与した。  ふたりは互いに想い合っていた。  教師と生徒の一線をこえ想い合い、慈しみあっていた。  だからこそ圭は耐えられなかった。  自分が敷島の枷になってる現実に、敷島を苦しめる人質である現実に耐えられなかったのだ。  「………圭を愛していた」  手錠で括られた掲げ、絵の中の微笑みに触れ、か細く震える声で呟く。  「……教師と生徒で……男同士で……年も親子ほどに離れていた。だが圭は、私を一途に慕ってくれた。けなげに懐いてくれた。家族にも明かせない悩みを、放課後の美術室で、こっそり話してくれた。圭の描く絵がすきだった。色使いが優しくて、見ていると自分が遠い昔に失ったものを思い出せた。……いつのまにか、親子ほど年が離れた圭を好きになっていた」  絵の中の敷島ははにかむように笑っていた。  たぶん生前の圭の前では、こんなふうに笑っていたんだろう。  俺はどこか哀しげに諦めた敷島の笑みしか知らない。  圭に死なれて笑えなくなったのは、麻生だけじゃない。  「初めて名前で呼んだ時……一線をこえてしまったとおもった。後悔もした。だがそれ以上に嬉しかった。漸く名前を呼べて……あとから貰った名字じゃなく、本当の名前で圭を呼べて、嬉しかったんだ」  「あとから貰った名字?」  「座間圭は養子なんだ」  不可解な発言にとまどう俺の後を継ぎ、麻生が目を閉じる。  困惑し、振り向く。  「………聞かせてくれ。お前と圭ちゃんはどんな関係なんだ」  質問を口にするのは勇気がいった。  禁忌にふれるような後ろめたさがあった。    コートのポケットに手を入れ、弛緩した姿勢で夜空を仰ぐ。  校庭を染め抜く赤色ランプの光が、研ぎ澄まされた横顔に映え、レンズに反射する。    「彼は屋上の張り出し窓に腰掛け    おのれに及ぶ者を知らぬ    これほど高く来るつもりはなかった   しかも達したのだ」    詩の暗誦。  まるでかりそめの言葉に託し、埋葬した真実を語り直すような。   「彼は蝶々としてさえも再生を信じない   彼が登り始めてから彼の家にはもう扉がない   教会の彼方に燃える遅い夕焼けを彼は愛する   彼は生と死を愛し   その二つをわかつものを愛する   窓は次から次へと彼に風景を示す   そしてそれらの風景を額縁にはめる   彼はその前に腰掛け おだやかに微笑む   そして悲しむことを好まぬ」  額縁の前でおだやかに微笑む圭。  もうここにはいない人。  麻生と敷島の心の中でだけ生き続ける少年。  遅い夕焼けのような赤色ランプが煌々とあたりを照らし、地に長く影をひく。  「彼はほほえむ なぜなら君たちが幸福だから   ただときどき彼はささやく   ああ この時の流れが どこか大海にそそがぬものか?   運命は彼を忘れたのに   彼はとっくに運命を赦している   彼を羨め   彼を軽蔑しろ   それは彼を測る物差しではない   エーリヒ・ケストナー『従兄の隅窓』…………圭ちゃんは俺の従兄だった」     『母方の伯母が不妊症なんだ』  『子供をほしがってたから譲ろうとしたんだけど、養子を貰っていらなくなったんだとさ』  『圭は家庭環境が複雑で、たびたび相談に乗っていた』  「圭ちゃんは子供のころ伯母夫婦の養子に入った。俺は六年前、一時期伯母の家に預けられて……圭ちゃんと出会った」  ポケットの内側で握りこむ手が震える。  「圭ちゃんは俺のすべてだった」  「圭が死んだ時、私の一部も死んだ」  被害者の遺族と加害者と。   麻生も敷島も形はちがえど、圭の死により大事なものを喪失した。  感情の一部であったり痛みを感じる心であったり涙であったり失ったものは多すぎて、とても一口じゃ言えない。  だから敷島も麻生も泣かない。  泣いていいのに泣けない。  泣きたくて泣きたくて、切実な感情が込み上げて胸が苦しくて熱くて吐き気がして、でも、泣けない。  ふたりにとって圭がどれほど大切な存在だったのか。  どれほど支えだったのか。  「十二月は終わる月だ。圭ちゃんがそう言ってた。……師走の由来を教えてくれたのも圭ちゃんだ」  敷島が弾かれたように顔を上げる。  麻生は敷島を見ず、俯きがちに続ける。  「年果つ、四極、為果つ」  年果てる月。  四季の終わる月。  何かをなし終えるための月。    「だから圭ちゃんは、十二月の最後の日に、すべてを終わらせようとしたんだ」  十二月が終わる月なら、十二月の最後の日は、一年の清算をする最後のチャンス。   「今日は圭ちゃんの命日だ」  敷島が梶を殺したのも麻生が遺書で釣って敷島を呼び出したのと、日付が重なったのは偶然じゃない。  十二月三十一日はふたりにとって特別な意味をもつ日だった。  この日に復讐を行う意味だけは譲れなかった。  他の日じゃ意味がなかった、今日じゃなければ意味がなかった。  十二月は終わる月。  圭が命を絶った日。  「私が圭に教えたんだ」  「え?」  麻生が意外げな顔をする。  眼鏡の奥の目に疑問の色をやどし、へたりこむ敷島を見おろす。   「私が圭に教えたんだ。師走の由来、十二月は終わる月だと。だから圭は……六年前の今日、十二月最後の日を……自分の終わりに選んだ。私のなにげない一言が、圭の死の引き金になった」  大事な人から大切な人へ、受け継がれた言葉。  敷島が教えた師走の由来は、圭の口から幼い麻生へと受け継がれ、麻生から俺へと伝わった。  人が消えても、想いは循環する。  「圭………」  括られた手を掲げ、絵の額に額を擦り合わせ、嗚咽する。  胸が浅く上下し、肩が浅く浮沈し、しかし涙は出ない。  自分には泣く資格がないと戒めてるかのように、嗚咽をまねても声は枯れ、涙は一滴たりとも絞れない。  絵のてっぺんに手をおき、俺は思ったまま感じたままを述べる。  「絵の先生、笑ってますね。優しい顔してる。……圭ちゃんにはこう見えたんでしょうね。背広、ひょっとして六年前から買い換えてないんですか」  「え?」  「おんなじの着てる。ずっと喪に服してたんだ」    俺の言葉がひとを救うなんて思いあがりだ。  言葉で救えるほど人間は安くできてない。  でも、それでも。  前を向くきっかけくらいにはなるかもしれないと、信じたい。  「座間圭は先生のことをよく見てた。背広の皺ひとつとっても、細かく、正確に……」  俺の言葉に促され、指先でぎこちなく、正確に描きこまれた背広の皺を辿りゆく。   「右下を見てください。なんて書いてあります?上の絵がはがれて、イニシャルも変わったでしょ」  上の絵は、右端にZ.K……座間圭の略称がしるされていた。  「敷島先生の下の名前……たしか、治でしたっけ。人間失格の作者とおなじ。イニシャルだとS.О」  片膝付き、力が抜け、絵から滑り落ちかけた指を隅っこのイニシャルへと導く。  絵の右下には、ふたつのイニシャルがならんでいた。    Z.KからS.Оへ。  「敷島先生の絵の上に自分を描いて、敷島先生のイニシャルの隣に自分のをならべて。一緒にいたかったんだ」  Z.KからS.Оへ。  括られた手じゃ抱きしめられない。  敷島は手錠ごと手を胸の前に掲げ、褪せた絵にできるだけ近付き、託されたぬくもりを感じようとする。  「………梶が憎かった。六年間、ずっとずっと、殺す日を夢見ていた。圭を失ってから一日だって満足に寝れた試しはない。あの男は、圭を……私の目の前で犯したんだ」  麻生の顔が蒼ざめていくのが暗闇の中はっきりわかる。  絵を支えるのと反対側の手で、すっかり冷え切った麻生の手を握ってやる。  さっき麻生がそうしてくれたように、ぎゅっと握り締める。  「………あれから圭の様子が変になった。圭の変調に気付いていたのに、あの時、屋上でとめられなかった。フェンスのむこうに立つ圭は……最後に泣きそうな顔で笑って……」  『私の時は間に合わなかった』  「殺してやりたかった。六年間、ずっとずっと決心がつかなかった。六年たって、七回忌まで一年を残す今になって、やっと決心できた」  敷島は圭を愛していた。  純粋さが狂気に達し、妄執に迫るほどに。  梶を殺したのも手紙を奪いに来たのも保身のためだと俺はおもっていた。  梶の犯罪に加担した証拠がバレるのをおそれ梶に脅迫されていた事実が明るみに出るのをおそれ、麻生の呼び出しに応じたのだとおもっていた。  事実それもあったのだろう。だが、それだけじゃない。  敷島は圭の手紙をもつ麻生に嫉妬していた。なにがなんでも圭の遺書を取り返したいという独占欲が高じ、ナイフで刃向かってきたのだ。  「梶を殺した動機も脅迫に端を欲する私怨じゃなくて、本当は……」  続けようとした俺を制し、静かに立ち上がる。  自分には麻生とおなじ次元で語られる資格がないとばかり首を振り、救いがたい悲哀にぬれた目で絵をみおろし、別れを告げる。  「さようなら、圭。秋山くん。麻生くんも……怪我させて悪かった」  手錠に括られた手で、慈しむように絵をひとなでし、踵を返す。  タクシーへと歩く古背広の後ろ姿にむかい、やりきれない感情に駆られて叫ぶ。  「先生!!」  「おちこぼれだとおもってないのは本当だ。……君はやればできる子だ」  パトカーに乗り込むついで、ちょっと振り返って言った台詞に笑っちまう。  「ひと切り刻んどいて説得力ねっすよ」  「ジャージは弁償する。警察に請求書をまわしてくれたまえ」  本当はわかってる。  梶を殺せても俺を殺せるはずがない、教え子を殺せるはずがないのだ。  腕や背中や致命傷を避けてあちこち切り刻んだのは苛むのが目的じゃなく、殺すのをためらったから。  敷島は梶のようなサディストじゃなかった。  ただ臆病でずるくて、優しいだけの人間だった。  事件の主犯格ならいざ知らず、もともと事件に関係ない俺を梶を刺し殺したナイフで始末するようなまねが、この人にできるはずない。  敷島はどこまでも優しくてずるくて臆病な男で、  座間圭はきっと、この男の優しさずるさ弱さを全部ひっくるめて愛していた。  最後に刑事が乗り込みパトカーの扉を閉じる。  窓に敷島の横顔が映り、すぐ刑事の肩に阻まれ見えなくなる。  パトカーが出発する。  砂を蹴散らし、開け放たれた校門から出て行くパトカーをその場に立ち尽くし見送る。  長い夜だった。  一生分の体験をしたような密度の濃い夜だった。    遠ざかっていくサイレンと赤色ランプの光を目で追い、隣に立つ男へ問う。  「……ひとつ質問」  「なんだ」  「俺と初めてしゃべった日、窓から人間失格なげたろ。本好きなくせに本粗末にするなんてけしからんってぶっちゃけ腹立ったけど、あれひょっとして、作者が敷島とおなじ名前だったから?」  「……はあ?」  「はずれ?」  眼鏡の奥からあきれ果てた眼差しを注ぐ。  「お前ばかか、いちいちそんな小せえこと気にしねーよ」  「ばかって言うな」  「人間失格好きじゃねーのはホントだけど。……手元の本でいちばん気に食わないの咄嗟に選んだってのはあるかも」   「理由は?」  「根暗で卑屈」  教科書に絶対のってる文豪の傑作をばっさり切り捨て、続ける。  「自意識過剰で対人恐怖症気味な作家の愚痴垂れ流しなんて興味ない。俺が好きなのは同じ太宰でも併録の『葉』の断章」  「葉の断章?」  なんだそりゃってかんじで首を傾げる俺をちらり流し見、ぶっきらぼうに言う。  「咲クヨウニ。咲クヨウニ」  「え」  「……そういう台詞が出てくるんだよ。貧しいロシア人の花売りが造花の蕾を売って……何にやけてるんだ?」  「え?別ににやけてねーよ、どうぞ続けて」  「………やめた」  「なんで!?」  「お前のにやけ顔見ると腹立つ」  がらじゃねー台詞を言った自覚はあるらしく、足元の砂を蹴散らし不愉快げにそっぽをむく。  数多い太宰の作品の中で、俺と麻生は偶然にも、おなじ話のおなじ台詞を気に入っていた。  悪童日記の見解の違い。  太宰の好みの一致。  悪童日記の双子の気持ちがわかると言った麻生が、造花の蕾が咲くよう祈る花売りの台詞を好きだと言った。   前者は理解できなくても後者は共感できる。  すれ違っては近付いて、近付いてはすれ違って、俺たちはこれからも境界線上を歩いていく。  「咲クヨウニ、咲クヨウニ、か。意外と可愛いとこあるんだな」  「うるせえ」  「ついでに聞くけど、覚えてるか?二階からド派手な登場したとき、ミステリに興味ねーって言ったくせに俺とおなじの読んでたじゃん。さらっとネタバレしてさ。興味ねーくせになんで読んだんだ、前に言いかけてやめてずっと気になってたんだ」  「どうでもいいだろ」  「あーそういうこと言う、言うか!?一体だれのせいで学校中かけずりまわって手首ひねって切り刻まれてあげく爆弾解除までやらされたと」  「ーーっ、作家のファンだったんだよ」  「……はあ?はあ!?え、マジそんな理由!?」  「……純文の頃から買ってたんだ。ミステリーに転身して……読まず嫌いも何だし、試しに一冊……」  「ははっ、だからマイナーって言われて怒ったんだ」  「駄作だった。買って損した」  舌打ちしてそっぽを向く。   まだまだ話したりない、一晩中でもしゃべっていたい俺の方へコロンボが手をあげ近付いてくる。  「おしゃべり中申し訳ないがそろそろ行こうか、署へ」  「……やっぱ行くんすか?」  「親御さんにも連絡せんとならんしね」  「あ」  忘れてた。  刑事との攻防もむなしく、ぼろっと疲れきった教師聡史ユキちゃんがやってくる。  「せ、先輩たちふたりっきりになんかしませんから……行くなら俺も一緒に……間にはさんで……久保田の顔も見たいし」  「ど、どんぶり返さなきゃな……もったまま来ちまったぜ……」  「あんたたちねえ。パトカーはタクシーじゃないんだけどね……ま、いっか」  パトカーの扉にしがみ付く聡史をふたりがかりでひっぺがしにかかる部下、どんぶりもって猛々しく吠える担任とを苦笑で眺め回し、コロンボが悪戯っぽく口添えする。   「ま、思い詰めなさんな。ビデオ見た限りじゃ被害者だしね、きみ。……仮に、だ。これからは私の妄想だから、話半分に聞いてほしいが」  使い込み古びたトレンチコートの裾をひるがえし、なれなれしく寄り添ったコロンボが、両腕をまわして俺と麻生の肩を抱く。  俺たちの間に顔を突っ込み、頬ぺたくっつけるようにして小声で囁く。  「……爆弾作って送り付けたとしても、直接の死因が刺殺ならせいぜい器物損害程度の罪だ。未成年なら動機次第で酌量の余地もある。梶は札つきのワルだったようだし……殺されて当然とは言わないがね」  俺たちの肩を抱く手に有無を言わせぬ握力と重圧がこもる。  「手あらなまねはしたくない。自分の意志で署にきてくれるね」  眼光鋭く聞くコロンボ。  断固として真実を追う職人気質の横顔と、妥協を許さぬ眼差しに気圧され唾を呑む。  「いい」  「いいの!?」  「時間はたっぷりある」   肩をすくめ、コロンボをはさんで隣の俺に挑発的な一瞥をくれる。  「殺し損ねて死に損ねた。……生きてるんだから、生き続けるさ」   笑う。  「……気が合うな、俺も」  「決まり。さあ、乗ってもらおう」  コロンボに背中を叩かれパトカーに誘導される。  コロンボとその部下に背を固められ、手錠こそないが監視つき、逃げ場のない状況で歩調をあわせ歩けばジャージの切れ目に外気が染みる。  「―ッ、て!」  反射的に切り刻まれた腕を庇う。  歩みが一瞬遅れた俺を憚り、振り向く。  「……だいじょうぶか」  「気にすんな、かすり傷。俺をだれだと思ってる、部長だぞ」  「迷惑かけたな」  「かけたのは迷惑じゃなくて心配」  扉を開いて待つパトカーの方に顎をしゃくれば、聡史と担任とユキちゃんが手をふってはしゃいでいる。  パトカーのまわりにたむろう顔見知りと、隣を歩く俺とを見比べ、小さく呟く。  「……そうか」  「そうだよ」   麻生が軽く頷く。俺も頷く。ふたり歩調を合わせ、赤色ランプが点る夜の校庭を歩く。  パトカーに辿り着くまでの間がやけに長く感じる。  距離にしてたった十五メートル、されど十五メートル。  緊張に乾いた唇をちょっとなめて湿らし、ずっと気になっていたことを聞く。  「麻生さ、聞いていい」  「またか。今度はなんだよ」  「なんで爆弾しかけたんだ?……ほんとに死ぬつもりだったのか」   後ろの刑事に聞かれぬよう声を低め、深刻ぶって囁く。  敷島と心中するつもりだったのか、自殺するつもりだったのか。  「………それもいいかとおもってた」  ブリッジを神経質に押し上げ、自らの内面を覗きこむように深い目をし、俯く。  「部室にケータイかけてきた時……試合に勝って勝負に負けるか、試合に負けて勝負に勝つかって謎かけしたろ。あれ、どういう意味だ」  「ああ」  そして麻生は実にさらりと、なんでもないように言いやがったのだ。  白い息吐き、茫洋とした眼差しを虚空に投じ。  夜目にも白く血の気の引いた横顔をさらし。  「時間に間に合ったらお前の勝ち。間に合わず、俺が爆弾と一緒に吹っ飛んだら敗け。敷島を釣る餌でも建前上ゲームと銘打ったんだ、そんくらいしないとフェアじゃない」  「うん」  「で、二択。謎を解いて屋上にきたら試合は勝ち、でも爆弾ともども吹っ飛ぶ可能性あり。俺も爆弾も放り出して逃げたら試合は負け、けど結果的に生き残りゃ勝ちともいえる」  ……まさか。  「えーと、たんま。今の爆弾発言?」  「ダジャレ?」  「しゃれじゃなくて真剣に聞いてんの。な、いいか、もう一度聞くぞ。お前、ひょっとして、自殺とか心中とか深いこと一切考えず、大晦日の晩に俺を巻き込んだ手前自分も命くらいかけねーとフェアじゃねーとか、そんなねじくれた発想で爆弾しかけやがりましたか?」  動揺と混乱のあまり日本語が破綻する。  俺の指摘で初めて自分の矛盾した行動が腑に落ちた様子で、レンズの奥の目に紛れもない賛嘆の光をやどし、こっちを向く。  「お前実は頭いい」  「馬鹿野郎!!!!!」  ぶん殴るのだけは一握りの理性で抑えた。  というのは嘘で、俺が渾身の力でこのバカぶん殴ろうとこぶし振り上げたらすぐ後ろの刑事が組み付いて、よってたかって阻みやがるもんだからますます頭に血がのぼって、激しくかぶりを振り地団駄ふみ手足をふりまわし、躍起になって暴れ狂う。  「よく考えたらそれどっちにしたってお前死ぬじゃん、命危険じゃん、俺が間に合っても解除できるかわかんねーしもし違う線切ったらドカンじゃん、しかも俺のこと抜きにしても敷島呼び出しただけで十分危険だし、おまっ、ほんとなに考えたんだよ!!?」  「落ち着いて、けがしてるんだから!」  「はなせっ、コイツは泣くまでぶん殴る!!」  「勝ったんだし、間に合ったんだからいいだろ?」  「お前が死んだらどっちみち俺の敗けなんだよ!!」  懐から場違いな古畑任三郎のテーマが流れる。何回目だこのパターン。  足をむちゃくちゃ蹴り上げ暴れながら片手を懐に突っ込み携帯をとりだしメールをチェック、凍り付く。  『兄貴って絶対受けだよね?』  マリからメールだった。  「受け……?」  わけわからん。  怒りもどこかへ吹っ飛びしばし黙考、妹がよこした謎の暗号に頭を働かせ、刑事に肘固めくらったままメールを打ち返す。  『受けってなんだ?』  返信終了。  大人しくなった俺を力尽くでパトカーまでひきずる刑事一同、ユキちゃんと聡史と担任が心配げな顔で見守る中、また携帯にかかってくる。   即座に通話ボタンを押す。  「あのなマリ」  『イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ、なんでユキにかけたつもりが兄貴にとどいてんの嘘ウソ信じらんない新年一発目のドッキリって言ってよ!!?』  年明け早々ハイテンション高音粋な絶叫が右耳から左耳を貫き、まわりの刑事たちも耳を塞ぐ。  もちろんマリの悲痛な絶叫はタクシーのそばに突っ立ってた担任と聡史とユキちゃんにも聞こえたわけで。  「マリちゃん、また間違えて透ちゃんにメールしちゃったんだ……」  ユキちゃんがぬる~い笑みを浮かべる。  『え、ウソ、そこユキいんの?なんでユキがうちのバカ兄貴と一緒にいんの、警察にいたんじゃないの、兄貴ユキんちにお邪魔してんの?てか攻め、じゃなくて友達はどうしたの、メガネクール攻め、じゃなくてメガネで優等生の麻生って人と一緒だって言ってなかった?』  『透?ちょ、貸しなさい!』  『ひどっ、私のケータイなのにお母さん横暴!』  電話のむこうで揉み合う気配がし携帯がひったくられる。  『あんたさっき電話くれたから待ってんのにちっとも帰ってこないじゃない、お母さんそばにラップして待ってたのにすっかり伸びきっちゃったわよ、どうしてくれんのよこのそば、食べちゃうわよ!?』  「食うなよ息子の年越しそば!?」  『もーあんたって子は、さっき突然ヘンな事言い出すもんだから釣られてしんみりしちゃってお母さん恥ずかしいわ。わかった、あれも作戦のうちね!帰りが遅くなるから情に付け込んで説教軽くしようって作戦ね、ケータイのむこうで計画通りな笑みを浮かべてたのね!?」  「お袋酷っ、しかも計画通りとかマリの漫画読みすぎだって!!ちがうって、話すと長くなるけどホント大変だったんだって色々!走り回ってくたくたであちこちけがだらけだしさー、今生きてるのが奇跡ってかんじ?」  『コンビニで立ち読みしてるんじゃないの?』  「おれ何時間コンビニで立ち読みしてんの!?」  『まさか家出?そうか反抗期なのね、さっきの電話は東京駅からで早速ホームシックなのね!?悪いこと言わないから帰ってきなさい透、入試のカンニングなら母さんもう気にしてないから!!』  「カンニング決定事項なのか!?」  『気にしないの?なーんだ。お母さん、私もこないだの期末で実は……』  『はあ!?あんたねーカンニングなんてクズよクズ、だから母さん裸の男の子が抱き合ってる漫画ばっか読まず真面目に勉強しなさいって言ってるでしょ!』  ……お袋、酷い。子供の人格全否定かよ。さっきのちょっといい話はなんだったんだ。  携帯ごしに壮絶な親子喧嘩をくりひろげる俺のそば、「透ちゃんは受けというよりむしろ総受けだとおもう」とユキちゃんが妙にもじもじし、「おばさんの説得ならまかしてください、むしろ菓子折りもって正式にご挨拶に!!」と聡史が気勢をあげ、担任が「お母さん心配させちゃだめだぞー秋山」と人さし指の上でコマの如くどんぶりを回転させる。  パトカーに乗り込もうにも乗り込めない状況でがなりたてれば、ふいに鼻がむずがゆくなりくしゃみを放つ。  「へぶしっ!!」  後ろから首にふわりとあたたかいものが巻かれる。  鼻の頭を赤くし隣をむけば、自分の首からむしりとったマフラーを俺に巻き、麻生がしかたなさそうに笑っていた。  俺の見た事ない顔で。  「ヘンな顔」   冷笑でも嘲笑でも蔑笑でもない。  六年前、圭ちゃんといた頃の麻生ならこう笑っていただろうという顔で、まだ多少ぎこちなさが残るけど楽しげに笑っていた。  鼻を人さし指でこすりむくれる俺をからかい、自分の首元を指さす。  「巻いとけ」  赤色ランプが点滅する。  「俺がやったんだぞ?」  「貸すだけ。やらないよ」  「……注文多いヤツ」  「友達にもらったんだ」  くしゃみをしかけ、びっくしりしてやめ、鼻に皺を寄せたへんな顔でまじまじ見詰める。  今の言葉を咀嚼し、反芻し、胸の内が幸せな感情に満たされていく。  担任が聡史がユキちゃんが口々に勝手を喚く中、とっととパトカーに乗り込んだ麻生を追って乞う。  「圭ちゃんのこと、聞かせてくれ」   「………いつかな」    時間はまだ沢山ある。  俺たちはまだ十七で、たった十七で、これからたっぷり未来へ助走する時間が残されてる。    死んでしまった人のこと、生きてる人のこと、一緒にいる人たちのこと。  俺たちがこれからどうなるかわからない。  このまま一生ずっと友達でいるのかいつかは境界線をこえてしまうのか、それはまだわからない。     圭の事。敷島の事。梶の事。  麻生が十七年間抱え続けたもの、六年間秘め続けたもの、その全部を知ろうとしたらこれからいくら時間があっても足りないし、その全部を知ったら、もしかしたら俺の手じゃ抱えきれないかもしれない。  それがどうした?  ひとりで持ちきれないならふたりで分け合えばいい。  「寒い。早く乗れ。外にいたんじゃドア閉められないだろ」  薄く目を開き、眠たげな顔で俺に手を貸す。  麻生が億劫げによこした手をしっかりとり、冷えきってはいても生きてる実感を与える体温と感触を確かめ、若干緊張ぎみに呟く。  「譲」  「なに」   「……別に。呼んでみただけ」  だらしなく笑って言えば、俺の手をにぎったまま、麻生がぐったりシートにもたれる。  「……おれを人殺しにしないようちゃんと見張っててくれよ」  ぬくもりをもとめむさぼるように、五本の指が強く絡んでくる。  「重いな、それ」  「お前が余計な事したおかげで生き残っちまったんだから、意地でも生きてやるさ」  「俺、圭ちゃんに似てる?」  「……ぜんぜん似てねー。圭ちゃんはもっと頭よさそうな顔してた」  「そっか」  「安心したか」  「ああ」  瞼を半眼にし、まどろみをたゆたいつつ、眠るのが怖いガキみたいに俺の手にすがる。  「……圭ちゃんの代わりなんかじゃないよ、おまえは」  「目障りとかどうでもいいとかさんざん言ってたじゃんか」  「目障りだよ。しずかに本読みたいのに、視界にちらつくと気になって集中できない。うるせーしすげー邪魔」  「どうでもいいは撤回する?」  一本とった。  ふてくされだまりこむ。  そっぽを向いた麻生のコートから赤い栞がたれてるのに気が付き、こっそり手を伸ばし、抜き取る。  「あ」  コートのポケットから抜き取った拍子に一枚メモがおちる。  麻生がコートのポケットに忍ばせていたのは、俺が誕生日に贈った古本だった。  ページの間から滑り落ちた紙片をかがんで拾い上げ、何の気なしに開く。    治リマスヨウニ  治リマスヨウニ  治リマスヨウニ  見慣れたへたくそな字で三行、同じ文がくりかえされていた。  「返せ」  俺の手から凄まじい勢いでひったくり、また本にはさんでコートのポケットに突っ込む。  「持ってきたのか」  「……処方箋」  ぶっきらぼうに呟く麻生の頬が薄赤く上気してるのを察し、得した気分になる。  くすぐったいようなこそばゆいような、浮遊するようなこの気分に名前を付けると、幸せとかになるんだろうか。   そっぽを向く麻生の手をしっかり握って、パトカーに乗り込みがてらひそかに気に病む。  男友達の横顔に無性にキスしたいっていうのは、やっぱりへんなんだろうか。   「……答えを出すのは先でいいか」    目を閉じると何度でも浮かぶ光景がある。  図書室二階の窓枠を蹴り、軽々ととびおりる麻生の姿。  ボーダーラインを越える事を一切躊躇しないいさぎよさ。     「なあ麻生」  「なんだよ」  眠たげな声で答える。  腕の怪我は浅いといってもほかにも傷だらけで、敷島と揉みあって体力は底を尽きて、今にも眠りにおちてしまいそうに瞼が危うい。  睡魔と戦いながら面倒くさげに聞く麻生の隣に腰掛け、じっと横顔を見つめる。  「四月、図書室の二階からとびおりてきたろ。かっこつけて」  「………ああ」  「あの時とおなじこと、今、できるか」  「できるけど、しない」  「なんで?」  「お前がいるから」  俺の手をまさぐり、寝言と境界線が曖昧な独白をもらす。  麻生の手と俺の手が繋がり、平行線が円に結ばれ、距離がゼロになる。  「………おまえがいるなら、ここがいい」    ここでいい、ここがいい。  前者と後者は全然ちがう。  前者は妥協だが、後者は意志だ。  麻生譲はボーダーラインのこちら側にとどまることを自分の意志で選んだ。  頭をあずけて規則正しい寝息をたてはじめた麻生を気遣い、凭れあうようにしてまどろむうちに、今度こそ完全な寝言を聞く。  「………秋山」  「…………いいよ。名字で譲歩する」  麻生に肩を貸し、自分が笑ってることに気付きながら目を閉じれば、バタンとドアを閉じ最後に乗り込んだコロンボが微笑む気配が伝う。  「………寝顔はガキだな」  俺たちは境界線上を歩いていく。
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