80人が本棚に入れています
本棚に追加
誰もいない家に、ただいま、と呟いた。
今朝は結局、きちんと話す時間が欲しいという夫の要望を聞き、今夜話し合うことになった。そして、ピアスは話し合いが終わるまで沙織が持っていることにした。
ここで返したら今日その女に会いに行くのではないかと思ったからだ。
しかし、正直、もうどうでも良かった。嫉妬することに、疲れてしまった。
夫が他所に癒しを求めているのだから、自分も彼に癒しを求めていることに対して罪悪感を抱く必要がなくなった、ただそれだけのことだと一日かけて割り切ることができた。
彼には、少しだけ会社で話をした。予想通り、面白そうに笑っていた。
『それなら、お互い様ってことで、これからも会えるよね』
彼には、夫婦仲があまり良くないとしか伝えていない。そのせいか、大きな問題として認識はされなかった。沙織自身も別に慰めを求めているわけではなかったが、何だか少し、心が冷えた。
今夜の話し合いを思って吐いた大きな溜息は、突然の電子音によって遮られた。
インターホンの音だ。
帰宅してきたばかりだったため、すぐに扉を開けようかと思うが流石に不用心過ぎるだろう。モニターで確認してからにしようと伸びかけた手を止めた。
鞄は玄関に置いたまま、沙織はリビングダイニングへと向かった。
部屋の隅にあるモニターを確認する。
モニターに映る人物は黒い帽子を深く被っていて、顔がよく見えない。
帽子と同じ色のパーカーはオーバーサイズのようで、だぶついている。
恐る恐るボタンを押し、その人物に声をかける。
「はい」
沙織の声に反応して、顔を上げた。幼さが残る顔がモニターに映る。
「あ。居た」
独り言のようだった。ぼそっと呟いて、それからカメラに少しだけ、顔を近づけて言った。
「すみません、ピアス、返して貰えますか?」
最初のコメントを投稿しよう!