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夫からの連絡に気づいたのは、既に事が終わった後だった。
数時間前に受信したそれを確認して、溜息を吐く。
『今日は早く帰れるから、晩ご飯は俺が作るね』
昨日早かった分、今日の帰りは遅いと思っていた。完全に油断した。
スマートフォンを見ていると、沙織の長い髪を指で梳いて遊ぶ彼は手を止め、甘えた声で問いかけた。
「どうしたの?旦那さん?」
沙織は返信の内容を考えながら、うん、と短く返事をした。指が液晶の上を滑る。
『ありがとう!昨日食べられなかった分、今日はしっかり食べるね』
帰りが早くなってから、時々、夫は料理を振る舞ってくれる。しかし、彼と食事をした後だとやはり食べられない。先週も二回程、食べられなかった。怪しまれないためにも、今日は食べなくては。
「ごめん、もう帰らなくちゃ」
ベッドから起き上がり、床に脱ぎ捨てられた下着を身につける。
「あれ、今日は遅いんじゃなかったの?」
「早く帰ってくることになったみたい」
ベッドに横たわる彼がつまらなそうに溜息を吐く。
「最近、旦那さん、帰ってくるの早いよね」
その言葉は遠回しに言いたいことがあるように思えた。
「バレてないよ、私たちのことは」
「わっかんないよー?気づいているから早く帰ってくるようになったんじゃないの?」
「だから、最近は君と会う回数減らしてるし、会っても早く帰ってるでしょ?帰りが頻繁に遅いと疑われる可能性が高くなると思って、これでも気をつけてるのよ」
「もう手遅れだったりして」
不安なことを楽しそうに笑いながら言う彼は、どこか面白がっているようでもあった。
「サスペンスみたいな展開になったら、どうする?」
「ちょっとやめてよ。そうなると私が殺されるじゃない」
「あなた、ごめんなさい、許してー」
わざとらしい演技をし、死んだふりをする。
動かなくなった彼に、あはは、と笑って沙織は椅子に腰を下ろした。
髪をまとめ、束ねる。化粧は面倒ではあったが、疑われる可能性があることはしないに限る。時間は惜しいが、家を出る時と同じメイクをすることにした。
少し前まで夫の帰宅は遅い時間が多かったが、一ヶ月前くらいから早く帰る日が増えていた。もしかしたら、本当に気づいているのだろうか、とそんなことが一瞬頭を過ぎったが、いやそれはないだろう、と思い直す。
気づくはずもない。夫は沙織を愛してくれてはいるが、女性として愛しているわけではないのだから。
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