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事の発端は十数年前。
待望の子供が沙織のお腹の中に、いた。
分娩室で可愛らしくも必死に生きようとする声も聞いた。
これから家族三人で頑張ろうと言っていた矢先のことだった。
ある日突然、その子は消えた。
病院で、愛しいその子は誰かに攫われたのだ。犯人は見つかっていない。
当時は頭も心もぐちゃぐちゃで、自分の身体が引き千切られるようだった。
夫はそんな私を懸命に支えてくれ、時間はかかったものの、何とか立ち直ることができた。
しかし、その時のことが辛すぎて、二人の間でその子は『いなかった』ことになった。
もともといなかったとしたら、悲しむことはない。辛い思いをすることもない。
産休をとっていた会社は辞めて、その事実を知る人がいない場所へと転職した。
沙織も夫も両親を早くに亡くしていたため、親戚付き合いは特になかった。そのため、身内の問題はなかった。これは、好都合だった。
別に夫と口約束をしたわけではない。お互い言わなくても、それが普通になっていたし、この話題に触れないことが暗黙のルールのようなものになっていた。
二人は新しい気持ちですべてを始め直した。
これですべてうまくいく。沙織はそう確信していた。
しかし、人生はそこまで甘くはなかった。
想定外の問題が発生したのだ。それは、夫が沙織に一切触れなくなった、ということだ。
仲が悪いわけではないし、毎晩同じベッドで並んで眠る。それでも、触れてはくれない。
抱きしめてくれない。唇を重ねることも、してはくれない。
子供を失って数年経ったある日、一度だけ沙織から誘った。
夫は優しい眼差しで「そういうことは、もう、やめよう」と言った。その一言で、今後一切触れられることはないのだ、と沙織は悟った。
「そうだね」と笑って返した気がする。
最初はそこまで問題ではなかった。しかし、何ヶ月、何年と時を重ねれば重ねるほど、人のぬくもりが恋しい気持ちは増していくばかりだった。
そんな時、同じ職場の後輩が食事に誘ってきた。
相手も遊びのつもりだろうし、沙織も離婚したいわけではない。ただぬくもりが欲しいというお互いの利害が一致しただけだ。
それから沙織は仕事が終わってから頻繁に彼に会うようになった。久しぶりに誰かに触れられて、本当に嬉しかった。幸せだった。満ち足りた気持ちになった。
だから、この問題は沙織が秘密をもつことで解決したと思っていた。
ところが彼と出会って二ヶ月経ち、もうすぐ三ヶ月というところで夫の生活リズムが一変した。早く帰ってくる日がここ最近、かなり増えたのだ。
いつもであれば、彼との逢瀬を楽しんだ後、一緒に食事をして帰るという流れだった。
それでも夫より先に帰っていたし、晩ご飯も作っていた。先に食べたことにして、夫の分だけを作っていたのだ。
そんな妻が夜いつも遅いとなると、流石の夫も疑う可能性は大いにある。
だから最近は、夫より早く帰宅するよう心がけていた。
そのせいで彼との時間が減ったことは辛いが、この生活も今だけの辛抱だと自分に言い聞かせていた。
それでも、我慢出来ない時や気が緩むことはある。
今日がまさにその日だ。
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