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山手マングース1
山手線はスリ師の梁山泊として知られている。
『二番線に電車が参ります ご利用の方は白線の内側にさがってお待ちください』
転落予防の注意を喚起するアナウンスがホームに響く。
山手線といえば今さら説明するまでもない都民にとっては身近な路線、東京の内側に円を描くように敷設された環状線。山手線の呼称が示す区間には品川、大崎、五反田、目黒、恵比寿、池袋以下略が含まれる。通勤通学の時間帯を中心にビジネス需要と生活需要に応え、一日数万から数十万が利用する大所帯だ。
昼にはまだ少し早い頃合、車内にはサラリーマンだろうスーツ姿の男性やカジュアルな服装の学生が目立つ。天井から鈴なりにぶらさがる吊り革を掴んだ彼らは、それぞれ音楽を聴いたり新聞を読んだり目的地まで漫然と時間を潰す。
過半数の人間にとって山手線は目的地に行くための交通手段のひとつ、たんなる通過点でしかないが、車両を仕事場にしている人間も少数ながら存在する。
羽生もその一人だった。
新宿駅から乗り込み三周目、周囲の状況を的確かつ正確に把握し、いよいよ行動を開始する。
見た目はごく普通の二十代後半男性。
シャツとスラックスの私服を着くずしたどこかやる気のない姿は、就職活動を凍結しバイトで食い繋ぐうちに三十路が押し迫ったフリーターに見える。
羽生は山手線を縄張りにするスリ師だ。
山手線はスリの聖域、腕前に自信もつ猛者どもが割拠する梁山泊。
二十七と年こそ若いが、その腕前は同業者のあいだでも抜きん出て一目おかれ、若造とばかにされないだけのテクと実績がある。
中坊の頃から手癖が悪く、もともと家が貧乏で遊ぶ金などもらえず小遣い稼ぎと憂さ晴らしを兼ねて山手線に乗って財布をスッていたため、スリ歴十二年にもなるこの道のベテランだ。
獲物に一切の痛痒感じさせず財布をスる手腕は同業者の間でも語り草となり、羽生の名字にひっかけて「山手のハブ」の異名を頂戴している。本人、いまどきハブかよそのセンスなしだぜと内心忸怩たるものを感じないではないが、異名に異議申し立てるのも恥ずかしいので呼びたいやつには勝手に呼ばせている。
吊り革を掴み眠たげにあくびする学生とスポーツ新聞を器用に折りたたんで読むサラリーマンの間をくぐり、目的の人物へ接近。
本日、羽生が狙いをつけたのは企業の重役風の中年男性。
仕立てのよいダークグレイの背広を着こなし、漆黒の光沢放つ靴をはく。
日本人の体型に従来の既製品は似合わない。
なで肩寸胴短足だとどうしても着られてる感が先にたってしまうが、男のスーツはきちんと寸法をとったオーダーメイド仕立てで即ち経済的に余裕がある証拠。靴も高そうだ。
心の中で舌なめずり、つまさきからてっぺんまでじっくり観察。
吊り革を掴みさりげなく隣に寄り添う。
男は羽生の接近に注意を払わず熱心に経済新聞を読んでいる。昨今の不況を憂えているのだろう。
車内はおよそ八割の入り。スリ師にとって最高の状況だ。これより人が多く混んでいても少なくてもやりにくい。前者は過密して身動きできず、後者はバレる危険が高まる。懐に手が届くほど近寄っても不自然に思われない距離というのは実に按配がむずかしい。
『次は田町、次は田町。お降りのお客様は電車がとまるまでお待ちください』
定例のアナウンスが響き、ドア付近に下車予定の乗客が移動する。
羽生は慎重を期して距離を縮める。
指先がちりちり疼く。
慌てるな、冷静に、沈着さを保て。
目を閉じ、呼吸を整え、神経を鋭敏に研ぎ澄ませる。
眼光鋭くえものの横顔をうかがう。
だいじょうぶ、気付いてない。
あたりまえだ、この俺が素人に気付かれるような凡ミスをするか。
経験と実践を踏み鍛え上げた己のスキルとテクに、羽生は傲慢なほどの自信をもっている。
俺はプロだ、素人に気取られるようなミスは万が一にもおかさない。
一方で油断は禁物と、己の増長を戒める。
何が引き金で気付かれるかわからない。異様に勘の鋭い人間というのはたしかに何割かの確率で存在し、運悪くそんなヤツに当たってしまったら……
輝かしい栄光と伝説に彩られたスリ人生に終止符が打たれる。
さあ本番だ。
気を引き締め、勝負に打って出る。やみつきになる高揚感に合わせ指先がぴりりと放電する。
男の財布は―……
口元に薄く笑みが浮かぶ。
観察の結果、重役は背広の内ポケットに財布をしまってると確信した。
尻ポケットや胸ポケットに無造作かつ無防備に突っ込んでる人間とは違い、ガードが固い。
表から見えない隠し場所は几帳面な性格に加え高額紙幣の所持を裏づける。
俺の目と勘に狂いはない。
予測があたってほくそえむ。
スリ師の本懐は大物一本釣り、相手に不足はない。
重役の隣に立つ。内ポケットを狙いつつ、タイミングを計る。
羽生の予想が正しければそろそろ―……
ブレーキ。
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