34 犬

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「お前は何にも知らねぇから、そんなバカなことが言えるんだ」  何にも知らないのは本当かも知れない。  でも、頭ごなしにバカと言われて少しむっとした。 「好きな人が望むなら何でも許せるって、そんなにばかなこと?」 「あの方達は『さらわれ姫』に執着しているだけだ……。冬十郎様はお前を極限まで甘やかして何も考えさせないようにしているようだし、深雪様はお前をボロボロにして屈服させて逆らえないようにしようと考えていたんだ。この先誰がお前の主人になっても、お前が自分の頭で考えて自分の人生を生きようとする道は、徹底的にふさがれるさ」 「……難しくて、よく分からない」 「だからよく考えろよ! 自分の一生を誰かに支配されてもいいのかって聞いているんだ。普通の人間みたいに、友達をたくさん作って、楽しいことたくさん経験して、気ままに旅をしたり、興味あることを勉強したり、結婚して家族を作ったり……お前はあとたった数十年しか生きられねぇのに、そういう生きる喜びを何も知らないままで死んでいく気なのかよ……!」  男の口調はどんどん熱くなり、自分で危ないと思ったのか、車を道の端に寄せて止めた。  時間は分からないが夜も遅いのか、車通りはほとんど無かった。どこまで走ってきたのか、遠くに潮騒が聞こえる気がする。  わたしは車の窓を少し開けた。  やっぱり波の音がする。  海が近くにあるらしい。 「なぁ……お前はそんなきれいな声をしているのに、例えば、本格的に歌を学びたいとか思わないのか。劇場とか、ライブハウスとか、大勢の観客の前で歌ってみたいとか、思ったことないのか。自分の才能とか可能性について考えないのか」  そんなことは一切考えたことは無かった。冬十郎が、ほかの者の前で歌うなと望んだから、誰の前でも歌う気はなかった。 「あなた、わたしの歌、どこで聞いたの?」 「葵だ」 「え」 「俺の名前、あおい」 「葵さんは」 「呼び捨てでいい」 「葵……は、どこで聞いたの? わたしは冬十郎様の前でしか歌わないのに、どうして」 「俺はあいつらと一緒にお前を監視していた。あの狭い部屋に仕掛けた隠しカメラで、お前のことをずっと見ていた」 「隠しカメラ……」 「交代で監視するはずだったのに、お前が歌を歌うから……」  葵がわたしの手を握った。  両手でそうっと包まれたので、あまり怖くは無かった。 「歌声を聞いたら、誰もモニターの前から離れなくなった。お前が一曲歌うたびに、堪らない気分になった。どうしても目を離せなくなって、ずっと……ずっと見ていた。お前が毛布をかじった時には俺も泣いたよ……。だけど、深雪様の命令だとあと三日も飢えさせる予定だった。耐えられなくなって、あいつらが暴走したんだ。俺が買い出しに行っている間に、お前に薬を盛ってさらいやがった」  葵の目がじっとわたしを見ていた。 「あいつらはお前を自分の女にしようとしていたんだ。お前をさらった後、ホテルで仲間割れしているところに俺が追いついた。間に合わなければ何をされていたか……かなり危なかったんだぞ」  わたしは葵の目を見返した。  やっぱり、葵の眼差しは、ほかの誰とも違っていた。  今まで見たものの記憶を探ってみて、『親』の一人が飼っていた大型犬の目が、その眼差しに一番近い気がした。  不快では無いが、意味がよく分からない。 「葵は、わたしをどうしたいの?」
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