34 犬

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「俺はただ……お前の声に惚れたんだ。こんなすげぇ声を誰かが独り占めするなんて、そんなひどいことがあっていいのかって、そう思っただけだ」  葵の言葉にわたしはびっくりした。  びっくりしすぎて、力を使ってしまった。  自分が座っていた座席が少しずつ崩れ始める。  さらさらと砂粒になって溶けていく。  車も、道路も、街灯も、周り中がさらさらと溶けて、崩れていく。 「わ、な、なんだ!」  幻覚に巻き込まれて、葵が声を上げる。  足元が崩れ去り、浮遊感に襲われる。  葵の手がこちらへ延ばされる。 「姫様!」  周囲のすべてが崩れてしまうと、奈落へ落ちていくような強烈な恐怖が襲う。  葵はわたしを引き寄せ、まるで落下の衝撃から守る様にわたしの頭を抱え込んだ。  どのくらいの間、そうしていたのか、気が付くとすべてが元通りになっていた。 「え、あれ? 戻った……のか……?」 「うん」 「今のは……」 「わたしの作った幻覚」 「姫様の?」  わたしは何だか噴き出してしまった。 「さっきまで、お前って呼んでいたのに」  葵は力が抜けたように、ふっと息を吐いた。 「大変失礼いたしました。姫様とお呼びしても、よろしいでしょうか」 「わたしの名前は姫ですから、それはかまわないのですけれど……葵が言葉遣いを変えるのならば、わたしも合わせた方がよろしいかしら?」 「え? それは……」 「今まで『親』が変わるたびに、言葉遣いや性格をその好みに合わせて生きてきたものですから、合わせるのは得意ですわ」  葵は首を振った。 「いや、普通にしゃべってくれ。俺もそうする」 「分かった」  何となく二人でくすっと笑った。 「さっきの幻覚は何だったんだ?」 「びっくりして、とっさに出ちゃっただけ」 「びっくり?」 「わたしをさらっておいて独占しようとしない人に、初めて会ったから」  葵の目が痛ましいものを見るように沈んだ。  冬十郎と同じように、わたしを憐れでかわいそうな子だと思ったんだろう。 「姫様の歌を初めて聞いた時、俺は欲情したよ。この女が欲しいって強く思った。薬を盛って姫様をさらったあいつらと同じだ」 「わたしの歌は見境なく男を誘うんだって、冬十郎様にも言われたことがある」  だから歌うなって、言われていたのに。  わたしは葵の目を見てしまったし、葵に触ってしまったし、歌も聞かれてしまっていた。  冬十郎との約束を守れていない。 「一曲だけでも、ものすごい衝撃だった。でも、歌は一曲で終わらなかった。姫様はただすることが無くて、手慰みに歌い続けただけなんだろうけど……俺は姫様の歌声を一曲聞くたびに、少しずつ少しずつ魂を削られていくような、心を浸食されていくような気がして、すげぇ怖かった。怖いのにずっと目が離せなくて、モニターを食い入るように見つめ続けて、一日の終わりには、もう俺の魂は姫様の歌に全面降伏していた」  心酔というのだろうか。  熱っぽい声で葵が訴えてくる。 「歌っている姫様は、俺にとって至上の存在だ。姫様をどうにかしようとは思わない。ただ自由に歌っていてほしいんだ」
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