34 犬

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 窓の外を見ると、うっすらと空が白んできている。  わたしは車のドアを開けた。  潮風が髪を揺らした。  まるで崇めるように言われて、わたしの心も動いていたんだと思う。  冬十郎の言いつけを破って、わたしはこう言っていた。 「何か、歌う?」  葵も車を降りて近づき、その場に跪いてわたしを見上げた。  遠くに夜明けの海が見えたから、わたしは葵のために浜辺の歌を歌った。  葵は歌っている間中、崇拝するようにわたしを見つめていた。 「俺は、姫様の犬になりたい」  感極まったように瞳を潤ませ、両手で自分の胸を押さえて葵は言った。 「犬……?」 「下僕でも、奴隷でもいい。俺を姫様のものにして欲しい。たまに声を聴かせてくれるなら、何でもするよ。俺は姫様のために生き、姫様のために死ねる」 「一緒に死ぬのは冬十郎一人でいい」  冬十郎に『様』をつけるのを忘れたなと思っていると、葵の顔がくしゃっと歪んだ。 「お前、残酷……」  その顔がかわいいような、可哀想なような、変な気持ちになってわたしは手を伸ばした。  黒髪をそっと撫でてみた。 「ごめんね、許して葵」  葵は跪いたまま、わたしの手を取った。  見上げてくる眼差しの意味がやっと分かった。  『忠誠』というのが、多分一番近い。 「覚えていてくれ。俺は姫様のためならどんなことでも出来る。冬十郎様に言えないようなことでも」 「うん……」  わたしは冬十郎に言えないことなんて無い、とは言わなかった。 「ねぇ、わたしの歌を独り占めにするのって、そんなにひどいこと?」 「ああ。俺はそう思う」 「冬十郎様も……ひどい男……?」 「優しいだけのお方ではない……と思う」  冬十郎を悪い魔女に例えた時、とても傷付いた顔をしていた。もしかしたら、冬十郎はわたしに対して常に罪悪感を持っているのかもしれない。  わたしがうっとりと心地よさに甘えているそばで、冬十郎は何か違う感情に苛まされていたのかもしれない。  命を捧げるほどに想ってくれるのは、いろんな感情が絡み合ってがんじがらめになった結果なのかもしれない。  冬十郎の心の中は、純粋な愛情だけで満ちているわけではない……? 「ふーん……」  もしそうだったのだとしても、今更もう遅い。  わたしは冬十郎という存在を知ってしまった。  優しく微笑むきれいな顔を思い浮かべる。  わたしを包み込むいい匂いも、口付けする時の甘い舌も、わたしより高い体温も、低く落ち着いた声も、あれは全部わたしのものだ。  わたしが死ぬまで、いや、死んでもわたしのものだから。 「なんか……姫様、急に雰囲気が……」  葵がほんの少し身を引いた。 「ああ……。わたしってね、たちの悪い化け物なんだって」  わたしは唇の端でちょっとだけ笑った。
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