35 味のしないキス

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35 味のしないキス

 もうすぐ夜が明ける。  わたしは遠くに見える海を指差した。 「海、近くで見てみたい」  行きたいところはないのかという葵の問いに、答えたつもりだった。  葵は嬉しそうにうなずいて、助手席のドアを開けた。 「姫様、どうぞ」 「ありがとう」  葵は運転している間も、車を降りて浜辺を歩き始めてからも、機嫌よさそうにニコニコしていた。 「姫様、寒くねぇか」  バスローブの上に葵の軍服の上着を羽織っているので、十分暖かい。  裸足だったが、砂浜なので歩くのにちょっと冷たいが痛くは無かった。 「うん、大丈夫だよ」 「お、日の出だ」  葵の見ている方に目をやる。  海の向こうに日が昇り始め、海面がキラキラと輝き出した。  さっきまでまだ夜だった空が、薄く透明な朝に変わっていくのを感じる。 「わぁ……」  日の光を掌に受けるように両手を広げる。  ふわっと手が温かくなる。  胸を広げるように大きく深呼吸する。  朝の海の香りがした。 「きれい……」  浜辺を歩くのも、朝焼けを見るのも、わたしは初めてだった。  横にいる葵を見上げる。 「葵、連れてきてくれてありがとう」  「ああ……」  微笑む葵の顔は、朝焼けに照らされて赤かった。 「ほんのひと時の自由だけどな。多分、そろそろどちらかに追いつかれる」 「うん……わたし、冬十郎様のところへ帰るよ」 「分かった。それが姫様の望みなら連れて行く。連絡先は分かるか?」  わたしは首を振った。 「えっとほら、電話番号とか、メルアドとか……」  わたしはもう一度首を振った。 「わたし、電話っていうものを使ったことが無いから」 「ええ? 一度もか?」 「誰もわたしに触らせてくれなかったの」  もとから連絡する相手もいなかったのだが、多分『親』達はわたしが警察に助けを求めるのを警戒していたんだと思う。わたしはさらわれた子供だったから。
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