35 味のしないキス

5/5
前へ
/169ページ
次へ
   怒りを歌に込めれば相手を怒らせ、悲しみを歌に込めれば相手を悲しませる。  歌いようによっては、もしかしたら……もっと怖いことが出来てしまうかもしれない。  そこまで考えて、ふと思い出した。 「あの、葵。でもちょっと待って」 「なんだ?」 「ショッピングモールでわたしが歌ったとき、わたしが考えていたのは冬十郎様のことじゃなかった。わたしは『先生』のことを思い出していたの。それでも、たくさんの男の人が追いかけてきたよ」 「先生……って、何でも教えてくれたっていう『親』の一人?」 「うん」  両手を握る葵の手に、少し力が加わる。  葵の笑顔がスッと消えた。 「先生って、まさか男か」 「う、うん、男だけど」 「いい男だったのか」 「え? ええと、きれいな人だったよ」  いい男の基準がよく分からないが、わたしはそう答えた。  葵の目が剣呑に細められる。 「姫様、先生を好きだったのか」 「うん、好きだったよ」 「冬十郎様よりも?」 「え? 冬十郎様と先生はぜんぜん違うよ。先生は『親』だもん。先生とわたしはキスしなかった」 「はぁ? 冬十郎様はキスしてくれるから好きなのか? じゃぁ、ほかの男も姫様にキスすれば好きになるのか?」 「え、ちが……」 「じゃぁ、俺がいくらだって」  葵はわたしの後頭部を押さえて、むりやり唇を重ねてきた。 「んん!」  強引に押し開いて舌が入ってくる。強く吸われて、下唇を噛むようにして、葵がやっと口を離した。  何だか息が切れた。  葵もはぁはぁと息をして、わたしを睨んでくる。 「なぁ姫様、俺が何度でもキスしてやるよ。抱っこしてやるし撫でてやるし、もっと気持ちいいことだっていくらでもしてやるから」  わたしが何も答える前にまた葵は口付けてきた。  しゃぶりつくようなしつこいキスを受けながら、わたしは不思議な気分だった。 「…………」  キスし続ける葵を、数センチの間近な距離で、じっと見やる。  わたしは抵抗もしないし、吸い返しもしなかった。  葵が気付いて、やっと唇を離した。 「姫様……?」  わたしは自分の口に指で触れた。 「味がしない」 「え、あ、あじ?」 「葵のキスは味がしない……」  冬十郎以外の男との初めてのキスだったが、それは全くの無味無臭だった。 「冬十郎様の唇と全然違う……」  葵がハッとしたように腰の刀をすらりと抜いた。  驚いて硬直するわたしを押しのけるように身構える。 「ほう、さっそく新しい男をたらし込んだのか」  背中から、冬十郎によく似た声が聞こえた。 「深雪様……」  葵のこわばった声に振り返ると白髪の美人が立っていた。
/169ページ

最初のコメントを投稿しよう!

184人が本棚に入れています
本棚に追加