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怒りを歌に込めれば相手を怒らせ、悲しみを歌に込めれば相手を悲しませる。
歌いようによっては、もしかしたら……もっと怖いことが出来てしまうかもしれない。
そこまで考えて、ふと思い出した。
「あの、葵。でもちょっと待って」
「なんだ?」
「ショッピングモールでわたしが歌ったとき、わたしが考えていたのは冬十郎様のことじゃなかった。わたしは『先生』のことを思い出していたの。それでも、たくさんの男の人が追いかけてきたよ」
「先生……って、何でも教えてくれたっていう『親』の一人?」
「うん」
両手を握る葵の手に、少し力が加わる。
葵の笑顔がスッと消えた。
「先生って、まさか男か」
「う、うん、男だけど」
「いい男だったのか」
「え? ええと、きれいな人だったよ」
いい男の基準がよく分からないが、わたしはそう答えた。
葵の目が剣呑に細められる。
「姫様、先生を好きだったのか」
「うん、好きだったよ」
「冬十郎様よりも?」
「え? 冬十郎様と先生はぜんぜん違うよ。先生は『親』だもん。先生とわたしはキスしなかった」
「はぁ? 冬十郎様はキスしてくれるから好きなのか? じゃぁ、ほかの男も姫様にキスすれば好きになるのか?」
「え、ちが……」
「じゃぁ、俺がいくらだって」
葵はわたしの後頭部を押さえて、むりやり唇を重ねてきた。
「んん!」
強引に押し開いて舌が入ってくる。強く吸われて、下唇を噛むようにして、葵がやっと口を離した。
何だか息が切れた。
葵もはぁはぁと息をして、わたしを睨んでくる。
「なぁ姫様、俺が何度でもキスしてやるよ。抱っこしてやるし撫でてやるし、もっと気持ちいいことだっていくらでもしてやるから」
わたしが何も答える前にまた葵は口付けてきた。
しゃぶりつくようなしつこいキスを受けながら、わたしは不思議な気分だった。
「…………」
キスし続ける葵を、数センチの間近な距離で、じっと見やる。
わたしは抵抗もしないし、吸い返しもしなかった。
葵が気付いて、やっと唇を離した。
「姫様……?」
わたしは自分の口に指で触れた。
「味がしない」
「え、あ、あじ?」
「葵のキスは味がしない……」
冬十郎以外の男との初めてのキスだったが、それは全くの無味無臭だった。
「冬十郎様の唇と全然違う……」
葵がハッとしたように腰の刀をすらりと抜いた。
驚いて硬直するわたしを押しのけるように身構える。
「ほう、さっそく新しい男をたらし込んだのか」
背中から、冬十郎によく似た声が聞こえた。
「深雪様……」
葵のこわばった声に振り返ると白髪の美人が立っていた。
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