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「あ、ああ……。俺は貧しい長屋の生まれだよ。母親は煮売り屋をしてた普通の人間だった」
「煮売り屋の葵……? どこかで……」
「うん、前に江戸で会ったことあるよ。俺は冬十郎様……あの頃はふゆ様って呼ばれていたけど、ふゆ様にすごく世話になった。感謝してるよ」
「ああ、やはりあの時の……」
齢五十を過ぎても見た目が異常に若く、周囲から怪しまれている男を世話して、里へ預けたことがある。亡くなった母親は煮売り屋をしていたただの人間で、父親には会ったことも無い、おそらく子が生まれたことすら知らないと……確かそんなことを言っていた。自分に流れる血について何も知らないまま人に交じって生きて来たなら、相当つらい目にもあっているのだろうが、葵はあまり多くを語らなかった。
「一族の里に行って、やっと自分が何者かを教えてもらった。仲間がいっぱいいてホッとしたけど、長くいるとあそこは退屈でさ……。結局、江戸が東京って呼ばれるようになった頃に人間の町に戻って、この前の戦争までは人間に交じって暮らしていたんだ」
「そうか。人として生まれ育ったのなら、欲のスイッチを切る感覚というものが分からなくても仕方がない。だが、葵はこの前の戦争後に里で何十年か過ごしたのだろう?」
「ああ、里はいつ行っても同じだから安心するよ。あのひどい戦争の後には、退屈なくらいの長閑さにだいぶ救われた」
蛇の一族は穏やかで平和的な種族だ。蛇しかいない里はほとんど争いごとも無く、自給自足で季節を愛でながらゆっくり時が流れていく。
私は変化を求めて里を出たのだが、あそこには変わらないからこその価値もあるのだろう。
「里にいる間、完全にスイッチを切っている男を見たはずだが」
「スイッチを切っている男?」
横から恭介が興味深そうに聞いてくる。
「葵、里にいる間、先代が何か食べるのを見たことがあるか? 女と睦まじくしているところは? 一度でも先代が眠るのを見たことがあるか?」
「えっと……」
と、葵は少しの間考え込んだ。
「え……? あれ? う、嘘だろ……?」
「無いのか?」
恭介の問いに、葵が「ああ無い」と小さく返事をした。
「へぇ、そりゃあ妖怪じみた御仁だな」
恭介が嘆息する。
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