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「ごめんなさい……」
「なぜ謝る」
「楽しいお話が、できなくて」
何かを好きになったり、大事に思ったりするのが許されるのは、それを明日も明後日もその先も持っていられる人だけだ。
わたしはいつも、明日どこに連れ去られるか分からなかった。
たとえお気に入りの服があっても、お気に入りのぬいぐるみがあっても、次にさらわれてしまえば終わりで……。
「今まで、好きか嫌いかを、よく考えたことが無いんです……」
よく考えないようにしていた、というのが正しい。
どんなに気に入ったものでも、どんなに好きになっても、それはわたしの手には残らない。
考えてしまったら、つらくなるから。
「ゆっくりでいい、姫」
冬十郎の大きな手が、わたしの頭をポンポンと撫でた。
「これからゆっくり考えよう。何が好きなのか、何が嫌いなのか」
何の悪気もなく、きれいな笑顔を見せる人。
きっと、この人の人生には好きなものばかりがいっぱいに溢れているんだろう。それを明日も明後日も自分の手に持っているのが当たり前の、きれいで優しい世界にいるんだろう。
冬十郎は、優しくて、でも無自覚に残酷だ。
彼の大きな手からふんわりと甘い香りがする。
いい匂いをすーっと吸い込むと、胸の奥が熱くなる。
気付きたくないのに。
わたしの好きなもの。
考えたくないのに。
どうせ手放さなくてはいけないものを、好きだなんて自覚したくないのに。
「考える時間はたっぷりあるから」
冬十郎は本気でそう言っている。
けれど、時間がたっぷりあるなどと、わたしは思えなかった。
少しでも気を抜けば、わたしはまた誰かにさらわれる。
冬十郎はきっと探してくれるだろうけど、今度もまた見つけてもらえるとは限らない。
でも、願いを込めて作り笑いをする。
「はい、ゆっくり、考えます」
どうか、少しでも長く、この人のそばにいられますように。
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