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16 歌
書店を出ると、遠くにピアノの音が聞こえてきた。
「あ、ピアノだ……」
「聞きに行こうか」
「はい!」
「嬉しそうだな」
「はい、先生の家にいた頃、小さなピアノがあったので先生の伴奏で毎日歌っていました」
「毎日か。楽しかったか」
「はい、いろんな歌を覚えるのは楽しかったです」
「そうか、好きなもの、一つあったな」
「あ……」
そうか、わたしは歌が好きだったのか……。
先生はわたしにたくさんの歌を教えてくれた。
先生が弾くのに合わせて、いろんな歌を歌った。
音程の取り方、発声の仕方、呼吸の方法、先生はわたしの知りたいことを何でもどんどん教えてくれた。
先生の家にいた時は歌を歌うのが日常だったのに、そういえばもう何年もわたしは歌を歌っていない。
冬十郎と手をつないで音のする方へ進むと、吹き抜けのホールに続いていた。
中央にグランドピアノがあり、女の人が弾いている前で子供達が歌っている。
ホールには何十人かの客がいて、吹き抜けの2階や3階からも柵に身を乗り出して見ている客がいる。
一つの曲が終わり、女の人は違う曲を弾き始めた。
「あ……この曲……」
先生が好きだった春の歌だ。
わたしはそっとピアノに合わせて懐かしいメロディーを口ずさんだ。
先生はわたしの声を好きだと言っていた。
いつも優しかったけれど、わたしが歌うとさらに優しい顔になった。
『……アユミは将来、誰のために歌を歌うのかな……』
一度だけ、そんなことを言った。
なんとなく悲しそうだったその微笑みを思い出す。
先生は今、どうしているのかな……。
歌うにつれ、周りの人が振り返り始める。
まるで波紋が広がるように、人々が静まり返っていき、こちらに顔を向けてくる。
子供達が歌うのをやめた。
「え……」
ホールにいる人々が、みんなわたしを見つめている。
何か悪いことをしてしまっただろうか。
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