16 歌

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「あ……あの……」 「続けて」  ピアノの女の人がわたしに言った。 「もう一度歌ってみせて」 「え」 「お願い、歌って」  わたしが返事をしていないのに、女の人は同じ曲を始めから弾き始めた。  冬十郎を見上げると、少し怖い顔をして「私も聞きたい」と囁き声で言った。  もうすぐピアノの前奏が終わる。  誰も彼もがわたしを見て動かない。  歌うしか選択肢が無いようだった。  息を吸って、わたしは一番の歌詞を歌いだした。  ホールにいる人も、後から通りがかった人も、異様な空気の中で顔を上気させていく。  ピアノの間奏になると、慌てたようにスマホを取り出す人が見えた。  二番を歌う。  頬を染めて崇拝するように見つめてくる人がいる。  三番を歌う。  何人かが胸を押さえ、何人かが涙を流し始める。  子供向けの曲は短く、すぐに歌い終わった。  誰もが息を止めたようにわたしを見つめている。  どうしたらいいのか分からなくて、その場でペコリとお辞儀をした。  突然、堰を切ったようにわーっと歓声が上がった。  驚いて、後退りする。 「……姫……」  震える声で呼ばれた。  振り返るより早く後ろから抱きしめられる。 「冬十郎様……?」  冬十郎の体は熱く、甘い匂いがむわっとわたしを包み込んだ。  長い指先が少し震えている。 「なんて、ことをするんだ……」  冬十郎の声もひどく震えていた。  何てことって……?  わたしはただ子供向けの唱歌を歌っただけ。  なぜこれほど冬十郎が動揺しているのか分からなかった。 「とうじゅ……」 「姫は見境なく誘惑しすぎだ」  言うなり冬十郎はわたしを抱き上げた。 「三輪山!」 「は、はい!」 「帰るぞ!」 「はい、こちらへ!」  黒スーツ達がガードするように取り囲み、2号が先導して走っていく。 「待って、あなた、少しお話を……!」  ピアノの女の人が言いかけるのをかき消すように、どっと雪崩れるように大勢の人が押し寄せてきた。  口々に何か訴えている。涙ながらに感動を語るもの、名前や年齢などわたしの素性を聞いてくる者がほとんどだったが、その中に、『ヒカリ』だの『ヨウコ』だのと知らぬ名で呼ぶ男の声が混じっている。  勝手に名前を付ける者は、私をさらう気があるものだ。  ぞッと寒気がして、私は冬十郎にしがみついた。
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