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「いい子だ……」
冬十郎が心底ほっとしたように笑う。
血で汚されていても冬十郎の笑顔はきれいだった。
わたしも笑い返す。
「はい……冬十郎様」
いい子にする。
冬十郎の望む子になる。
「姫、これから先……たとえ何があっても決して人を殺さないでくれ……」
大きな痛みに耐えるように苦しげな声で冬十郎が続ける。
「人を、殺さない……?」
どうしてだろう?
冬十郎以外の人間が、死のうが生きようがわたしにはどうでもいいのだけれど。
「姫……。誰にも罰せられなくとも、人を傷付けた記憶は澱のように胸に溜まっていく。傷付けた相手を放っておけば、その記憶はいずれ姫の心を濁らせていく」
冬十郎の言っていることは、わたしにはよく分からなかった。
きれいで心地よい響きだけど意味が分からない……。それはまるで遠い遠い異国の言葉みたいだ。
きっと、冬十郎が今まで生きてきた世界は、わたしには想像もできないくらい優しく美しい世界なんだろう。きれいで心地よい言葉がちゃんと通じるような、良き人ばかりが周りにいたんだろう。
「相手を殺してしまえば、その心の濁りは永遠に消せなくなる。濁ったまま生きていくのはとても苦しいものだから、姫にはそんな思いをさせたくはないのだ」
心の濁りとか言われても……。
正直、あまりよく分からない説教だった。
けれど、冬十郎が泣きそうな顔で真剣に言うから、わたしも真剣に聞いていた。
冬十郎の生きている世界は、冬十郎の見ている世界は、眩しいくらいにきれいなんだと思う。それはけっして壊してはいけない、とても尊いもののような気がした。
「……約束、できるか……」
必死な顔で冬十郎がわたしを見つめる。
「約束します。何があっても、人を殺しません」
それが冬十郎の望みなら、わたしは従う。
だって私もそちら側に行きたい、そちら側で生きてみたいから……。
「誓います、冬十郎様」
人を殺さない。
絶対に。
この先に、何があっても。
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