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「これを君の肩にかけてやりたい。近づくが、よいか」
と、ゆっくり、足を踏み出してくる。
カツンと靴音が鳴り響き、寒さなのか怖さなのか、わたしはぶるっと震えて自分の腕を抱きしめた。
「む」
黒髪美人は透明な壁に当たったように、足を止める。
「私が怖いか?」
「わ、分かりません」
黒髪美人はキンパツ男とは違うと思う。とてもきれいで優しそうに見える。でも、『親』じゃないものを受け入れていいのか、分からなくて迷う。
「私をここに呼んだのは君だと思うのだが……。呼んでおいて拒むとは」
「い、意味が分かりません」
黒髪美人はふうっと溜息を吐いた。
「できれば、この張り巡らされた警戒心の壁を取り払ってほしいのだが」
「どうしたらいいのか……分からない……」
黒髪美人は一度ぎゅっと目を閉じた。
「そうか、では仕方ないな」
覚悟を決めたような顔をして、黒髪美人は深呼吸した。
重いものを押しのけるようにゆっくりと、一歩近づく。
わたしは思わす一歩後退りした。
「そこから動かぬように」
真剣な目で言うと、黒髪美人は片手で自分の胸を押さえた。
苦しそうに歯を食いしばって、また一歩、進んでくる。
呼吸をするのも辛そうだ。
ゆっくり、ゆっくり、一歩、一歩、近づいて、ついにわたしの目の前まで辿り着いた。
「到着だ」
ふわり、とコートをかけられた。
同時に甘い香りに包まれる。黒髪美人の匂いだろうか。
「ほら、つかまえたぞ」
黒髪美人がにっこり笑った。
肩にかけられたコートがじんわりと温かい。
急にがくりと体の力が抜けた。
「おっと」
黒髪美人はわたしを抱きとめ、コートでくるむようにしてひょいと抱き上げた。
きれいな顔が間近で微笑む。
「壁が消えたな」
「そう、なんですか」
「ああ。もう怖くはなかろう」
「はい……」
わたしは力を抜いて黒髪美人に寄り掛かった。
その首に黒いネクタイが見える。黒いスーツに黒いネクタイ、そして黒いコート、葬式でもあったんだろうか。
黒髪美人はわたしを抱いたまま、すたすたとその工場を出た。
倒れているキンパツの方にはもう一瞥もくれなった。
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