30 化け物

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 少しだけ眠って、冬十郎のいないベッドで目を覚まし、しばらく喪失感で呆然とした。  甘い匂いに包まれて、間近に体温を感じながら目覚める日々が、当たり前になっていた。  寂しくて涙が滲んだ。  わたしが泣いているのだから、きっと今頃冬十郎も泣いている。  目を閉じて、一度だけ見た冬十郎の涙を思い出す。  あの人は作り物みたいにきれいに涙を流した。  目を赤く腫らしたり、鼻を赤くしたりもしない。  目の端からポロリと雫が零れて、スーッと頬を伝わって、顎から落ちた。  零れた涙はきっと舐めれば甘いだろう。  冬十郎の唇や舌もとろけるほどに甘いのだから。  わたしは手の甲で乱暴に涙を拭った後、ジャバジャバと水で顔を洗った。  わたしの目は赤く腫れるし、鼻水もたれてきちゃうから。  お腹がくぅっと小さく鳴いた。  食べ物が無いので、また蛇口から水を飲む。  ベッドに戻って毛布にくるまる。  また涙が滲む。  何となく、横浜の悲しい女の子の歌を歌った。  歌っている間は、少しだけど気がまぎれていい。  知っている限りの悲しい歌を歌って、時々水を飲んで過ごした。  お腹がすいて、毛布の端っこをガジガジと噛んだりもした。  部屋が薄暗くなる頃、お湯をはってお風呂に入った。  体が動くうちは、清潔にしておこうと思う。  いつ冬十郎が探し出してくれてもいいように。  首輪はどうやっても外せなかったので、そのまま湯船に入った。お湯が染みて首の擦り傷がひりひりと痛んだ。浴室のドアは、トイレのドアと同様に、鎖が邪魔でちゃんと閉められない。  溜息を吐きつつ、自分の裸を見下ろす。  栄養たっぷりの食事を毎日規則正しく食べさせてもらって、最近やっと少し肉がついてきた。髪に艶が出て、血色も良くなった。わたしの体は、まるで宝物みたいに本当に大事にされていた。  それが今はあちこち擦り傷だらけで、こんなことがいつまで続くか分からない。 「ああ……またガリガリになったら、冬十郎……泣くかな……」  呟きながら、傷だらけの腕を撫でる。  その時、何か聞こえた気がした。  ガチャリと、まるで鍵を開けるような。  ハッとして、ザバリと湯船で立ち上がる。  やっぱり、何か音がする。  濡れた裸のまま、浴室を飛び出した。  キョロキョロと見回すと、玄関にコップが置いてあった。  オレンジ色の液体が入っている。  鎖が届くギリギリの位置にあるそれを手に取ると、ガラスがとても冷たかった。 「ジュース……?」  柑橘系の香りがした。  何かの罠なのだろうが、わたしを殺すつもりならもうとっくに殺しているはず。  わたしはコップに口をつけた。  ここにきて初めて水以外のものを口にしたせいか、ものすごくおいしかった。  ごくごくと半分ほど飲んだところで、わたしの指からコップが滑り落ちた。  ガラスが砕けてジュースが床に零れるのを見ながら、わたしは後ろへゆっくり崩れた。  そしてそのまま意識を失った。
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