31 見えない鎖

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31 見えない鎖

 涙腺が壊れたように、涙が出る。  半身をもぎ取られた痛みに、心がのたうち回る。  呻き声が、噛みしめた歯の間から洩れる。  廊下に散らばるガラスの破片と果汁のような液体、そして、鎖の付いた首輪。  鍵を差し込まれたままの首輪の内側には、わずかに血の跡が残っていた。  あの細い首にこれをはめたのか。  傷が付くほど乱暴に引っ張ったのか。  頭の血管がちぎれそうだ。  胸にうけた矢傷はすぐに癒えたが、腕に刻まれた姫の歯型はやはりきれいに残っていた。  シャツの上から腕の歯形をぐっとつかむ。 「地の果てまでも追い求め、必ずこの手に取り戻してみせる……」  あの時、雰囲気に流されるように口をついて出た怖いセリフ……。今は、心からの本気の声だ。長らく忘れていた怒りという感情が、腹の底でふつふつと沸き立っていた。 「ご当代様、あまり思いつめられては……」  七瀬がそっと肩に手を置いた。  あの後、マンションから追い出したはずの男の社員も全員が駆けつけ、口々に説得された。 先代にすべてお任せするべきだと、女一人に命を捧げるなど馬鹿げていると。 『里に戻るなら戻れ、私を見限るなら見限れ、たとえ一人でも私は姫を追い駆ける』  子供が駄々をこねるように私は同じことしか言わなかった。  三輪山はずっと泣いていたが、私が一人で出ようとすると黙って後ろをついてきた。その後、七瀬をはじめほかの全員が結局は私に従ってくれた。  姫と初めて会った日のように、遠くから呼ばれる感覚がある。  あの日、呼ばれる感覚に従った私は廃工場で姫を見つけた。他の誰もそれを感じ取れないようだが、その感覚の先に姫がいるのは間違いない。だが、それはある程度の方角が分かるというだけで、正確な位置までははっきりと割り出せなかった。しかも、突然1、2時間ほど途切れることがある。もしかしたら姫が意識のない間や、眠っている間は信号が出せないのかもしれない。そうなると、姫の睡眠時間は異常に少ないことになるが。  今もまた、ここの近くまで来たところで、呼ばれる感覚は途切れてしまっていた。  しらみつぶしに周囲をあたり、やっとこの解体直前の古アパートを見つけた。古びた蛍光灯に照らされた室内を見回す。壁紙の汚れた狭い部屋には、粗末なパイプベッドが一台だけ置いてあり、寝具は薄い毛布だけ、ほかに家具も何も無い。  床に姫の着ていた服が下着まですべて散らばっていた。嫌な想像に目の前が暗くなる。もしも私の姫を穢した者がいたならば、どんな手を使っても殺してやる。相手が例え蛇であろうと、自ら死にたくなるまであらゆる拷問を繰り返して永遠に地獄を見せてやる。 「ご当代様」  三輪山が背後から呼びかけてきた。 「監視カメラの映像が残っていたのです、が……」  振り返ると、三輪山は怯えたようにびくりとした。  心の中が顔に出てしまったらしい。  三輪山は一族の中で最も若く、まだ五十年ほどしか生きていない。三輪山にとっての私は『冬九郎』という常に穏やかな老紳士だったのだから、感情むき出しの今の私に畏怖を覚えるのも仕方がないことかもしれない。 「何だ。言いなさい」  少し表情を緩めて、先を促す。
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