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忘れもしない、10歳の誕生日のことであった。
「ハッピーバースデー美保!」
母が蝋燭立つケーキを手に、笑顔で言った。
「うわぁ!すごいキレイ!」
「でしょ〜?これ、オーダーメイドなの!」
誇らしげに蝋燭に火を灯しながら母が言う。
「さ、一気に吹き消して!」
「うん!」
私は肺どころか身体中に空気を溜め込む様に息を吸って、吐き出した。火が靡いて消える。
「おめでと〜!」
「えへへ!」
私は早くケーキが食べたいが為、蝋燭を引き抜く。根元の銀紙に少しのクリームとスポンジがくっ付いている。なんだか勿体無い気がして、舐めた時だった。
「美保!」
お母さんに呼ばれる。
流石に意地汚かったか……なんて考えた私の脳は次の母の言葉でフリーズしてしまった。
「泣きなさい」
「え……?」
この「え……?」は母の言葉に驚いて言ったのではない。「泣きなさい」と言った母の顔が、全くの別人に見えたからだ。
先程まで私の誕生日を祝ってくれていた私の母はそこには居なかった。
そこにいるのは、笑顔の仮面を貼り付けた、名誉欲に溺れた一人の女だった。
「泣きなさい」
もう一度、その女は言った。
目は笑っているし、口も釣り上がっているが、そのどちらの奥からも酷くどす黒い闇が見えていた。
「な……なんでですか?」
私は思わず敬語になっていた。完全に私の中の本能が「このヒトは私の母ではない」と警告を発していた。
「鍛錬よ、昔もやったでしょう?」
「やり……ました、けど、もうこれ以上泣くのは早く、な、ならないです」
女は笑顔のまま首を振って答えた。
「早さじゃないの。リアリティよ。見ている人が本当に悲しくて泣いていると思い込むくらい、リアルな『泣き』を目指すの」
女が手元にあった包丁を握る。日常の中のさりげない動作だったが、私はその時本当に殺されるんじゃないのかと思った。
「その為には完全なる『自己感情との決別』が必要なの。収録前に何か嬉しいことがあって泣けない、なんてことになったら大変だものね」
母は包丁でケーキにゆっくりと切れ込みを入れながら答える。もちろん、ずっと満面の笑みで。
「視聴者の人達は直ぐ気付くの。『あ、この人何かあったんだな』って。そうならない為にも、感情を一気に0から100、100から0に持っていく必要があるわ」
「涙は決して感情表現の最高潮ではないの。真顔で泣く人も、たまにいるでしょう。けど、貴女達『女優』は駄目。泣く演技をする時は、本当に心から泣かないと駄目なの。貴女の今までの涙はそれじゃなかった。だから泣く時間にムラがあったのよ」
母が呆然とする私の前に、名前入りのチョコレートが乗ったケーキの一切れを差し出した。
「さぁ……今日という日、今が人生で最も悲しいと思って……泣きなさい」
目の前に、笑顔の仮面があった。私が泣くのを待っている。
私は泣いた。しかし、それは演技ではなく、本心からの涙だった。
あぁ、私の母はもう戻ってこないんだな。という、諦めの涙だ。
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