寺崎朱里

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 ──誰にも言わないでくれるかな?  いつもクールな清水先生がその時見せた真っ赤な頬と慌てたそぶりに、朱里の心は一瞬で惹きつけられていた。だが、それよりも強烈に目を奪われたのは、先生の手に握られていた分厚い紙の束の方だったかもしれない。  きっかけは偶然だった。  廊下ですれ違った時、清水先生が小脇に抱えていたA4サイズの封筒に、朱里の腕が偶然ぶつかった。  封筒が床に落ちて中身が散乱すると、先生は慌ててそれらをかき集めようとした。「ごめんなさい」と言いながら、朱里も一緒にかき集めるのを手伝った。  そのA4サイズの紙には、40字×30行程度と思われる書式に印刷された文章が敷き詰められていた。  枚数は100枚以上あったと思われる。  これはひょっとして、と思った瞬間、文章中に人物のセリフと思われる鉤括弧の一文があるのを見つけた。  朱里は驚いて清水先生を見上げた。 「先生……これ、小説ですか?」    先生は耳の先まで赤くなり、瞳の中に動揺を浮かべて「まあね」と少しはにかんだ。 「すごい……! 小説家を目指してるんですか?」 「いや、俺は別に……そんなんじゃないよ」  必死でごまかしながら、それでも否定せずに、先生は原稿を大事そうに封筒にしまった。そして、 「寺崎。悪いけど……このことは誰にも言わないでくれるかな」  と言った。  二人だけの秘密にしてくれと囁く先生の眼差しは艶やかで、先生という記号を失った、ただの清水橙士(とうじ)という異性を感じさせた。  朱里は大きく頷いた。 「誰にも言いふらしません」  きっと公務員が副業するのはいけないことだからなのだろう。  でも、先生は、書く仕事がしたいのだ。  朱里が密かに憧れている夢と同じ──作家になりたいのだ。
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