33人が本棚に入れています
本棚に追加
奈良橋蒼生
「はい、これ返す」
タクシーの中で片思い中の羽田翠から茶封筒を受け取った時、奈良橋蒼生は一瞬「これ、なんだっけ〜?」と言いそうになった。
「あんたにこんな面白いもの書ける才能あったなんて知らなかったわ。ちょっと見直しちゃった」
「ああ〜あれか! あの小説な」
「まるで他人事みたいね」
正直、奈良橋は今、それどころではない。
膝丈のスカートを組み直す翠の足がエロい。
奈良橋の目はそこからさらに上へと遡り、ダイナマイトと呼びたくなる双丘の谷間に釘付けになった。
デレっと伸びかけた鼻の下をこすって物理的に止め、フッと笑ってわずかにカッコつける。
「そんなに良かった?」
「正直、意外。これって、高校生の淡い恋愛を描いた青春ストーリーじゃない? こんなピュアなもの、よくあんたの汚れきった心で書くことができたわねえ」
「褒められてるのかけなされてるのか、分からないな……」
「一応褒めてるのよ。私の担当患者の子も面白がって読んでくれた」
翠とは一ヶ月前に合コンで知り合った。
奈良橋好みの凹凸のある体に、冷たく刺すような視線がたまらない。しかも職業はナースときた。これはキープするしかないと、この一ヶ月間死に物狂いであの手この手を使ってアピールをしてきたが、翠の反応はいつも薄かった。
奈良橋はこれでもやり手と呼ばれる雑誌編集者である。
担当はビジネスで、仕事内容だけはわりと堅い。
女にモテたくて、見た目も気を使っている。顎髭はあるが、無精で残している訳ではない。セクシーな男を演出するためのお洒落ポイントとしてわざと生やしているのだ。いつでも脱げるように筋肉もそこそこ鍛えており、スーツやネクタイも女受けしそうなものをいつも身につけるようにしている。
だが翠は落ちない。収入も見た目も水準を超えているはずなのに、全然落ちない。
「軽い男は嫌いなのよね」
さすがナースと言うべきか、外見には簡単に騙されてくれない。
とうとうポイ捨てされかけた時、奈良橋の頭に悪魔が囁きかけてきた。
「本当の俺は軽くないよ。これを読んでもらえば分かる」
奈良橋がその時翠に差し出したのは、たまたまある知人から持ち込まれた小説の原稿が入った封筒だった。
まだ編集部に届ける前の、手垢のついていない紙原稿。
部署が違うので受け取りを断ろうとしたが、ぜひ読んでみてほしいと知人に懇願され、奈良橋も最初の数ページだけ読んだ。すると、思いの外女子受けしそうなピュアな内容に目をみはった。
これは使える、と奈良橋は思った。
見た目でダメなら内面だ。知的&純粋アピールで今度こそ翠を落としてみせる‼︎
そのためなら、編集者としての倫理観なんてクソ喰らえだ‼︎
こうして悪魔に魂を売り渡して二週間後、ついに翠が奈良橋を褒めてくれたというわけで──。
「……良かっただろ? もっと俺のことを深く知りたくなっただろ?」
翠がうんと言えば、すぐさまタクシーの運転手に最寄りのホテルまで連れて行ってもらおうと画策していた奈良橋だが、翠は、
「うーん。でもなんかやっぱりあんたが書いたとはどうしても思えないのよねえ。私のこと、騙してない?」
いつも患者に注射器の針を刺しているその目で、奈良橋を冷静に見つめている。
じーっと、じーっと、アブラゼミかとツッコミたくなるくらい見つめている。
「……騙してなんか、いねえっす」
奈良橋は目をそらし、唇を3の形に尖らせた。
一流スーツの下で、ダラダラと流れる脇汗が止まらなかった。
最初のコメントを投稿しよう!