エビチリおばさんと豆乳おじさん

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*  その年の桜は例年より一週間ほど遅かった。この町に来てからというもの、毎年春になると電車に乗って、全国的にも有名な桜の名所を訪れていた。線路沿いを流れる川、その両岸に満開の桜が約八キロにもわたって立ち並んでいる。桜並木の向こうには、雪を頂く峰々がそびえていた。  川のそばの小高い山は城址公園になっていて、この公園も春には全山が桜色に染まる。山頂からは、川をひた走る千本桜と山を彩る桜の絨毯を同時に眺めることができた。  山のふもとの芝生広場では、ぐるりと囲むように屋台が展開され、ステージ上で地元の学生がよさこいを披露している。  広場に敷いたブルーシート。僕の向かいには恵子ちゃんが座っている。タッパーにはおにぎりやウインナー、玉子焼きなどのお弁当の定番のほかに、案の定エビチリも入っていた。そして、僕と恵子ちゃんの間には、ハイハイしている小さな子どもが一人。  風香。昨年誕生した、僕の宝物だ。  会社に行って、疲弊して帰宅して寝て、また次の日会社に行く。淡々と繰り返すだけだった日々が、結婚して子どもが生まれて守るべき家族ができてからは劇的に変わった。まず、夜遅くまで残業することはなくなった。娘をお風呂に入れるのは僕の役目だ。生まれたばかりのころはおっぱいを上手に飲めず疲れて寝てしまう娘だったが、首がしっかりしてきて、手足をたくさん動かせるようになり、ごろごろと寝返りを打ち、よだれで床を水浸しにし、離乳食をぶーーっと噴き出して笑い、小さい体からは想像もできないような大声で叫び、そしてハイハイで自由に動けるようになった。子どもと一緒にいて退屈しないわけがない。十年くらい育休取りたい。 「幸太さん、お腹減りません? 食べましょうよ」  恵子ちゃんが、から揚げに手を伸ばそうとしていた風香を抱き上げた。 「ふーちゃんはまだ食べらんないからねー。ごめんねー」  風香は謎の赤ちゃん語を発しながら、恵子ちゃんの腕から脱出しようと全力で仰け反っている。 「はいこれ、お箸」  恵子ちゃんは、風香をほとんど小脇に抱えるような体勢で、僕に割り箸をくれた。 「あーん、してください、あーん」  恵子ちゃんは、あごでエビチリを指しながら、口を開けた。僕はエビを一尾とって、恵子ちゃんの口に放り込んでやった。 「なにイチャついてんの、お前ら」  たこ焼きとビールを持って帰ってきたのは掛川さんだった。その隣に、玉こんにゃくを持った一人の女性。  恵子ちゃんは高速でエビを咀嚼して飲み込んだ。 「日香里(ひかり)さーん! ふーちゃん私になかなか慣れてくれなくて。パス!」  風香は、日香里に抱っこされたとたんにおとなしくなった。 「お前抱き方下手くそなんじゃねぇの」 「将来に向けての練習です。てか、目があっただけで泣かれたゆいさんに言われたくないですよ」  日香里は僕の妻だ。  三年ほど前、恵子ちゃんが突然「これからはロシア料理の時代です!」と言いだして、中華料理のラインナップのなかにロシア料理が並ぶようになった。するとこれがどうやら当たったらしく、「おいしいロシア料理を出す中華料理店」としてちょっとした話題と評判になったのだ。日香里は、その評判に釣られた客の一人だった。ロシア料理が好き過ぎて、ロシアの民族舞踊まで習っているというつわものだ。山田苑は変わった人を集めるオーラでも出しているのだろうか。  店でちょくちょく顔を合わせているうちに仲良くなり、色々あって付き合うことになり、あれよあれよと結婚して風香が生まれたのだ。 「私、二人の愛のキューピットですね」 と、恵子ちゃんは胸を張ったものだった。  一方の掛川さん。地元に帰って当時付き合っていた彼女を呼ぼうとしたものの、彼女側が田舎に行くのを土壇場で拒否。そのまま自然消滅となってしまったらしい。向こうで四年間働いた後、去年、またこの町に戻ってきたのだった。 「将来ってお前、彼氏くらいできたの?」 「いるわけないでしょ、喧嘩売ってんですか?」 「お前、今いくつだっけ」 「二十九です」 「山田も気づけばアラサーか」 「まだピチピチの二十代だし」 「違う意味でピチピチだな」  掛川さんは恵子ちゃんの二の腕を突っついた。恵子ちゃんは心底嫌そうに掛川さんの手を払った。 「分かってるんですよ私だって。最近化粧のりは悪いし」 「あー。化粧濃くなったよな、そういえば」 「胸は垂れるし」 「嘘つけ、垂れるほどないだろ」 「毎日豆乳飲んでたんですけどね、無駄でしたわ。つまりゆいさんの存在は無駄でした。セクシーでキュートなキューティーハニーになれるはずだったのに」 「お前豆乳好きだからいいじゃん。また持ってってやるから」 「あ、ありがとうございます」 「あの二人、ホント仲いいよね」  日香里は、そっと僕にささやいた。 「何度か恵子ちゃんに聞いたことはあるんだ、掛川さんのことどう思ってるのか。そしたら、『早くあいつの死に顔見たい』とか言ってた」 「なにそれ」  日香里はふふっと笑った。風香もつられてキャッキャと声を上げた。 「でも恵子ちゃん、優一さんがこっち帰って来た時、すごい喜んでたよね」 「悪態つきながら口角上がってたもんな」  恵子ちゃんはすぐ顔に出るタイプだ。 「ねぇ!」  日香里は、二人に呼びかけた。  掛川さんと恵子ちゃんは、同時にこちらに振り向いた。 「あなたたち結婚したら?」  掛川さんは、はっと目を見開いた。 「山田! 俺と結婚してくれ!」 「いやだぁぁぁぁぁあぁああああ白馬に乗った金髪碧眼の王子様がいい!」 「お前そこは新堂陽じゃねぇの?」 「陽くんはそういう対象じゃないから。私なんかが恐れ多い」  風が吹いて、桜が舞った。  花びらが一つ、ふわりと風香の手のひらに落ちた。  風香はそれを珍しそうにまん丸の目で見つめて、手をぎゅっと握った。 Fin.
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