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旅の終わり
旅の終わりは、思いのほか早く訪れた。
「大丈夫か」
目覚めと同時にかけられた低い声。
大きな両手がぎゅっと私の手を包み込む。
ああ、またやってしまった。
こちらを覗き込む心配げな視線から目を逸らす。
「……ごめんなさい。あの、ありがとう」
「まだ起きるな。いいから寝ておけ」
身動ぐ肩を優しく押され、ベッドに逆戻る。
でも、という言葉は紡げない。言ったら最後。
声は決して張り上げないのに、怒気を含んだお説教をねちねちと受けることになる。
もう夕方だ。
ベランダの窓を開け、干していた洗濯物を取り入れる大きな背中、その向こうの空がオレンジ色に染まっている。
「お前、これで何度目だ」
「……よん、五度目ですね。ごめんなさい」
「俺に言うな。謝る相手を間違えている」
どうやら今回は大人しくしてても無駄なようだ。
洗濯物を片付け終える合間、小気味いい包丁の音を響かせる合間、優しく漂う香りの合間、横たわる私の耳に容赦なく届けられるお小言。
手も口もテキパキと動かす器用さは主婦顔負けだ。
「薄味にしておいた。野菜たっぷりスープだ。食えそうなら持ってくるぞ」
起き上がる背を支えてくれる腕。
そこまでしなくても大丈夫なのに、私のやんわりとした断りは聞いていない。
クッションにブランケット、山盛りの座席に苦笑する。
同じ部屋でご飯を食べる仲。
手料理や家の事を任せられる相手。
私はこの人に全てを明け渡している。
そこに艶っぽい事情はこれっぽっちもないけれど。
この出会いは事故のようなものだった。
早急に住む場所が必要になった私は、住み慣れた街や実家に戻るという選択をしなかった。不動産屋を巡り、運良くすぐに部屋を見つけたけれど、入居して一週間も経たない内に下着泥棒と部屋の中で鉢合わせた。
下着を頭から被った変態に驚愕し、逃げ出したところ玄関付近で揉み合いになる。殴られ、蹴り返し、格闘しながら必死でドアをこじ開けたら、騒ぎを聞きつけた隣人……つまりこの人に助けられたというわけだ。
元々、壊れかけ。
いつ踏み抜いてもおかしくない薄氷の上で成り立っていた私の精神は、この事件により崩壊した。
混乱と恐怖、動揺と焦燥で訳が分からなくなっていたのだろう。
警察や病院、諸処諸々の全てを手配してくれたこの人に、その頼りになる姿、優しさに、図々しくも縋ってしまった。救いを見出してしまった。
正気に戻ったのは全部を打ち明けた後。
知り合いでも友人でもない。
会って間もない人間、それもたまたま助けただけの人間が、唐突に泣きながら今までの過去を喋り出し、慰めと癒しを強制的に求めてくるのだ。
さぞ驚いたに違いない。
幸いだったのは、この人が憐れに縋る無防備な小娘に不埒な真似をせず、黙って受け止めれる度量を持ち合わせた大人、だいぶ年上の男性だったことだろう。
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