良心をたずねて

1/1
前へ
/1ページ
次へ

良心をたずねて

         良心をたずねて  着地は無事成功した。身体のあちこちが軋む。久方ぶりの気圧に触れて、骨は悲鳴をあげた。しかし、こんなことにも耐えられるように、訓練を積んできているのである。彼女は、ふう、ふう、と等間隔に息をつきながら、徐々に空気の重みに慣れていった。  捜さなくてはならなかった。彼女には任務があるのだ。重大な任務である。ずっと夢であった気高い職につき、そして、経験値を積んできた。今度の任務に成功すれば、彼女はいよいよ偉くなるらしかった。彼女は目を細めて、捜すべき対象の情報を見つめた。  男で、大悪党である。ただ、この時代にはまだ罪を犯してはいない。しかし、恐ろしい悪事をそのうち働くのである。そういう気質の持ち主であるからして、心づもりして関わらなければいけない。  その男の住居は分かっていた。問題はどのようにして、関わりを持つかである。無論、来る前からある程度決めているのである。男は、ジムに通っている。ジムのインストラクターとなって、担当を譲ってもらうか、生徒として一緒に通うか、二択である。  彼女はこの世界において、全く孤独であった。誰の助けも得られなかった。無論、この世界のことはよく勉強してきたけれど、ジム云々については残っている情報が少なく、詳しくは知りようもなかった。  ともかく、何でもいいから関わりを持たねばならなかった。そして、彼女の任務は、この男を更生させることである。男を真っ当な道にかえすことによってのみ、将来に待ち受ける大惨事を回避することができるようになるのであった。  彼女は、与えられた身分と金品を売ってつくった金を使って、ジムに通った。インストラクターとなるには、少々手続きが煩雑であったため、まずは生徒として関わりをもとうと考えた。  しかし、ジムでなかなか一緒になるということも少ないのに気がついた。が、男の趣味と言うとこの程度で、あとは会社勤めに一人暮らしときた。接触するための目立った機会は、ジムにしか無いのである。  ところが、雇った探偵から耳寄りな情報が入った。どうやら男は、今度とある街コンに参加するらしかった。そこで、おんなじものに申し込み、あわよくばカップル成立を目論むのであった。  任務の達成のためなら、恋人となることも辞さないのであった。幸い元の世界に自分の帰りを待つ人もいなかったから、抵抗は無かった。  男には慰めが足りないのかも知れなかった。そうすると、彼女がその一助になれれば御の字なのであった。  男と面と向かって話す機会が、とうとうやって来た。だいぶんもたついたが、ようやく初めの一歩だ。  この任務に時間の制限はない。彼女が元の世界にかえったとき、男が悪人となっていなければ良いのである。しかし、時間は確実に、彼女の歳を食ってゆく。ここにいる間も、彼女はちゃんと老いていくのである。——だから、彼女はいつも、どこか急いでいる。  男はだいぶん優しげな口調であった。また、穏やかな表情をしていた。とても悪事を起こしそうには思えなかった。  問題は、男の悪事の内容を、彼女はほとんど聞かされていないのである。大方こんなものであるというのは、好奇心に駆られてしつこく迫った結果得られたけれど、標的に妙な先入観を持ってはいけないからということで、伏せられているのである。しかし、大悪党と聞かされている時点で、そんな配慮は全部無駄だと、彼女は思う次第である。  男への印象は大分良かった。恋人となっても構わないと思う。  そして見事、成立したのである。ここでちゃんと成立させられるのが、プロたる所以である。彼女は、タイムパトロールなのであった。未来の世界から人類の存続のため、歴史を修正するべく、過去へ送られてくる実働部隊である。  男と付き合い始めた彼女は、ますます男のことを良く知っていく。出身、趣味、学歴、好きな異性のタイプ、これまで付き合った人のこと……聞いているうちに、普通も普通、平凡な人だと思った。一方の彼女はと言うと、嘘で塗り固めた経歴を披露する。これは思いの外楽しいのであった。自作の物語を聞かせているようなもので、任務のたびにこのお手製の過去は錬磨されていくのであった。時には本当の話まで織り交ぜてやるのがコツである。男はへえと感心しぱなしであった。しかしどうやら腑に落ちない点があるようで、 「じゃあ何故今君はここにいるの?」と問われる。が、 「人生どう転ぶか分からないものよ」とごまかしてしまう。これは常套手段である。  しめしめ、嘘をつくのは楽しいものだ、と彼女は借りたアパートの一室にて考える。明日はどんな嘘をつこうと楽しみにしている節さえあった。  故、理由はどうあれともかく彼女は男とのデートを楽しんだ。男は奥手で、彼女のファンタジーにうんうんと頷くばかりであった。しかし男もまた、幸福感を覚えていた。  そして、二人は恋人同士ならあるような親密な展開をあまり迎えぬまま、一月か二月が過ぎた。先日手を繋いで見つめ合って、彼女はちょっと笑ってごまかしたのだった。  彼女は、もういいだろうと考えた。彼が大悪党になどなりっこないと考えた。そして、悪くない生活で非常に惜しい気もするが、この世界にお別れをすることを決めたのだった。  彼には、遠いところに旅に出ると告げた。彼はショックを受けていたが、分かってくれた。 「必ず戻って来てね」と言われて、心が痛んだ。そこで彼女は、 「もし私が戻って来なかったら、死んだと思って。生きているなら、必ず貴方のところに戻ってくる」 「そんな危ないところに行くの?」と彼は不安げな顔をした。 「ちょっと、ね。戦争してるようなところに行くから」  こういう適当な嘘をついて——今の嘘はそれほど愉快でもなかった——彼女は彼との別れを済ませた。  男は世界を恨んだ。彼女を奪った、この世を憎んだ。  男は、彼女を信じて疑わなかった。故に、彼女は死んだと思った、誰かに殺されたと思った。  復讐をするのに、具体的な対象は要らなかった。この世の全てが悪に見えた。  彼女は、男にとって全てであった。その全てが、奪われたのである。  しかし、男は決して、憎悪の熱に、身を焦されたわけではなかった。酷く冷静に、着実に、機会をじっと窺いながら、事を進めるつもりでいた。  殺人は進んでおこなった。彼女に限らず、世は悲劇に満ちているのである。それを何食わぬ顔で、我関せずとしてのうのうと生きている人間には罪がある。罪がある人間は、進んで殺すことにした。罪とは、全く男の主観である。理不尽と言えば、理不尽である。しかし実際に、人は、この男に殺されるのである。  捕まってしまってはしようがないから、男が殺人を行うのは、どうしても足がつかない時に限るのであった。男の目は濁っていった。しかし、男にはためらいがなかった。元々果断に長けた人物ではあった。決めたことをやり通す意志の力をもっていた。見知らぬことを不安がらなかった。だから、すぐ決断して、手を震わせることもなく、行動することができた。  男は、自らの手で殺すことのできる数に限りのあることを悟った。そこで、人同士を殺し合わせることにした。端的に言うと、戦争を引き起こすのである。  実際問題、人を喜ばせたり幸せにしたりするのが骨が折れるのに比べ、人を怒らせたり、いがみあったりさせるのは驚くほど簡単であった。男はともかく、自分自身が殺されないようにだけ気をつけて、全てを直接手にかけなくとも、ただ種を撒くだけで済んだのであった。そうして、男は確信した。人は、悪意に満ちているのだ。満ちてやまない悪意に蓋をするために、必死で決まり事や道徳などを用いて縛り付けているらしかった。  男は問われた。「どうしてこんなことをするのか」と。男には終着点としての目的はなく、ただある刺激に傾いて誘われるのであった。  ——壊したいという衝動。その衝動一点のみに傾注して、男はここまでやって来たのである。男には、そういう才能があった。  西村(にしむら)博士は、この男の才能を、次のように形容した。——彼は世間知らずではなくとも、その嫌でも耳に入る声を全く無視してしまうことができる。そして、自身の内に滾る心情について、正直に応えることができる。そういう才能を持っている。だから、彼を良い方向に向かわせることは可能だった。彼が怪物となったのは、彼の周りがいけなかったのだ——  結果的に、男は初め小さな戦争を引き起こし、しかしその戦争は次の戦争へと波及し、最後には人類に壊滅的な被害を与えるほどの大戦争へと繋がって行くのである。後の研究で、男の戦争責任が明らかになり、西村博士の論文をもとに、タイムパトロールは彼女を過去に送ったのであった。  目覚めた彼女は、既に組織に回収されていた。そこにいたのは、彼女の上司である川田(かわた)であった。 「どうなりました?」 「何も変わっちゃいない」  彼女は少々沈黙して考えたのち、 「そうですか」と答えた。  彼女はそれからだいぶん考え込んで、 「どうしてです? 彼はどうして……」 「君が原因だ」と川田は言った。 「結局、君があの男を悪魔にしたのだ。あの男は環境次第で悪魔にも英雄にもなると博士は言った。だから、君であの男を懐柔させようとした。ところが、逆効果で、君のせいで奴は悪魔になったのだ」 「私のせいって、どういうことですか?」  彼女は心底不思議がって聞いた。 「君のいなくなったせいで、あの男は世界を逆恨んだのだ。君が、奴に気に入られ過ぎたせいだ」  川田は吐き捨てるように言った。 「でも、私は……」 「君がどう思うかは問題でない。あの男が、どう思うかが問題なのだ。分かるだろう、やり直しだ」 「しかし……」  同じことを繰り返すことはできなかった。彼女はもはや、あの時代に男と接触した過去を持ってしまったわけだから、同じ時代に飛ぶことはできなかった。 「誤差があって遅くなっても、君が消えてから数年後の未来へ。できれば数ヶ月以内には会わせたいが、タイムマシンにそこまでの厳密さを求めることはできない。もし君のいる時代に被ってしまったときは、その間は身を隠すんだ」 「しかし、また戻れば彼は……」 「そう。——だから、戻ってくるな」  川田はそう、彼女に通告した。 「そうですか。過去に永住ですか」  この界隈ではよくある話である。彼女はため息をついて、色々な人の顔を思い浮かべた。 「しかしリスクがありますよ? 私をそこまで信用できますか」 「あの男が大人しくしていれば、歴史は大きく変わる。我々の現在いる、滅びゆく世界とは、別の世界線が生まれるのだ。君の好きな世の中にすれば良い」  歴史が大きく変わってタイムパラドックスが生じれば、その時間軸は切り離され、すべての変更が無かったことになる。川田はそれを覚悟して言うのであった。タイムパラドックスが生じる原因は様々考えられる。いずれにしてもそれは、彼女が何らかの理由でタイムパトロールの命令に背くことを意味していた。——彼女がやるべきは、ともかくまずは彼の側にずっといてやるということであった。  結果がどう転ぶかは分からない。彼女はもはや、その時がくれば彼に対して自身の素性を明かそうとさえ考えていた。  別れの挨拶をあらゆる人に手短に済ませた。別れは長くなっても仕方がないと考えていたからだ。どうせ別れるのである。そして、それが別れを惜しむような相手であるならば、きっと思い出は十分である。だから、 「もう会えないかも知れない」とだけ言って、そうして世話の焼ける彼に会いに行った。  残念ながら彼は、その頃にはもう三人殺していた。彼女が現れて、驚き目を丸くした。 「てっきり……」と彼は言葉を失った。 「てっきり何よ」 「いや……」  彼はしかし、こみ上げる嬉しい感情を、うまく表に出すことができなかった。そのせいで、 「嬉しくないの?」と彼女に問われるはめとなった。 「嬉しいに決まってる!」 「じゃあ抱きつくなりしたら?」  彼はぎこちない所作で、彼女へ寄った。 「もうずっと一緒にいてあげるから、二度と悪い気は起こさないように」  彼は、「うん」と言って頷いた。  気がつくと、彼女は川田と対面した。 「君の改変した時間軸は切り離された。残念ながら、任務は失敗だ」  彼女はブワと泣き出した。  川田は彼女を罵倒したい気持ちであったが、責めても仕方が無いと思い、慰めるつもりで、 「彼は、どうだった?」と尋ねた。彼女は何とも答えられなかった。ただえんえんと喚きながら、泣いていた。  
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加