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「どうか、しましたか?」
「……いいえ」
少女は強張った表情を浮かべながら、首を振る。
なんでもない。と繰り返した。
住職は見ないふりをする。
「……さあ、本堂で経を上げましょう」
本堂に近付くにつれ、少女の表情はこわばり、足取りも重くなる。
住職は黙ったまま、ゆっくりと少女を促した。
大きな仏像の前まで来て、袖を握る手をそっとほどくと、腰掛けるように言う。
だが、入り口の前に立ったまま、少女はかたかたと震えて後ずさった。
「ねえ、御坊……やっぱり……私……」
住職は準備を整えるために、棚を整えている。
震える声で少女は呼びかけたが、住職は振り返らない。
少女は思い立って、一際声を張った。
「御坊。せめて、そうだ……うちで、うちの仏壇で……」
祖母の部屋に、祖父の仏壇があったはずだ。
――きっと祖母も両親もそこに……。
少女は言いかけて、棚をハッと見つめた。そこには住職によって位牌が四つ並べられている。そして最後の五つめがその手でその棚に並べられようとしていた。
「五つ……?」
「おうちの御仏壇にあった位牌は、事故の後でこちらに。ご家族と一緒の方が良いでしょうから、と」
祖父、祖母、父、母。
住職はもう一つの位牌を手にして、少女に向き直る。
表の文字はよく読めない。だが書かれた日付は、他の三つと同じ。
住職は少女の前まで来て、それを裏返す。
「なん、で……私の……?」
そこには、少女自身の名前が彫られていた。
少女は呆然と住職を見上げる。
なんの冗談。と口走ろうとして開けた口が、言葉を発せぬまま塞がらない。
震える手で、入り口の柱にしがみつくようにして立ち尽くす。
住職は少女に背を向けた。
位牌を棚の一番前にそっと並べると、所定の位置に腰を下ろした。
静かに蝋燭に火を灯す。
――そして、静まり返った本堂の空気を割るような、澄んだ鈴の音が響く。
読経が始まる。
いや。と少女は、あえぐように息を漏らしながら、首を振り、後退る。
震える足が、重たく、思うように動かない。
がくがくと震える膝を引きずるように、壁伝いにして本堂の外に這い出る。
読経が追ってくるように思えた。
歩いても歩いても、先ほど通ってきたはずの廊下がどこまでも長く、出口が遠い。
外に出ても、そこから寺門までが果てしない距離に思えた。
それでも、少女の本能が住職の声を、この寺を忌避する。逃げ出さずにはいられない。
慣れ親しんだ寺の敷地が、まるで知らない場所のように思えた。
迷い込んで、出られなくなった牢獄のようだ。
離れているはずなのに、読経は頭の中でどんどん大きくなって響いていく。
次第に足が動かなくなり、そのまま床に膝をついた。
四つん這いのまま、少女はそれでも廊下を進む。
開いたままの玄関から、外に手を伸ばした後は、殆ど記憶にない。
視界も、方向もわからないまま、体を引きずって前に進む。
やがて倒れ込んだ先で、夢を見た。
祖母に叱られ、そのことで父に殴られる母。
祖母を怒らせたことを父に叱られる少女を庇おうとして、やはり手を上げられる母。
そんな母親が少女に向かって手招きをしている。
少女は嫌だと突っぱねようとした。だが、父も祖母もそこに姿は見えない。
それなら――と、いう気がした。
手を伸ばそうとした時、その母の姿が滲む。蜃気楼のように揺らいで消えてしまった。
再び、リーンと澄んだ音が聞こえて、少女は目を覚ます。
砂利の上。線香の香りが漂ってくる。
目を開けると、すぐ目の前が墓地だった。
本堂から裏に少し登ったところだとすぐに分かる。
茂った草の向こうに、今にも崩れそうな小さな家があった。
「……わたしの家」
呟いてみるが、とてもそれと認識することはできない。
少女の記憶とはあまりに違っていたからだ。
よろよろと、坂を下る。
読経は止んでいるようだ。
まだ身体は重たいが、歩けないほどではなかった。視界も思考もはっきりしている。
寺門へと歩みを進めた。
寺の外に出ると、空気が違う。更に体が軽くなるようだった。
足を速めて、家へと駆け戻る。玄関前を通り過ぎて、庭に抜けた。
生い茂った雑草。壁に伝う蔓。
人が住んでいる家には、どう見ても思えないだろう。
花壇には花もなく、朝顔が咲いていたはずの鉢は支柱が刺さっているだけ。
枯れてすらいない。そこには何もなかった。
ひびの入ったバケツだけが、玄関横の壁に丁寧に置かれている。
さっきぶちまけた水は、まだ乾き切っていない。
水道をひねると、水が出る。ひびの入ったバケツから、水はどんどんと溢れて流れていく。 少女は庭をうろうろと歩いた。
「あ~また。だれの仕業や」
背後から、聞き覚えのある嫌な声だ。
「こんな家、誰も寄り付かん言うのに……なんでこんな……」
老婆は曲がった腰で少女の前を素通りする。ぶつぶつと独り言を言いながら水道の水を止める。忌々しげに家を見上げて、震え上がるように首を振る。そそくさと玄関を出て行った。 足が弱っているらしい老婆は、少女の記憶よりも随分と老け込んでいる。
後ろをついて歩くようにして玄関まで見送る。
老婆はちらりとも少女を見なかった。
少女は迷いながら、玄関の門を出る。振り返ってみた家は、もう自分の家のようには思えなかった。
――だけど、完全に離れることもできない。
脇にずるずるとしゃがみ込んだ。
膝を抱えて、額を置く。
思い返してみると、父と母が死んだ後のことがきちんと思い出せない。昨日のことなのに。 忙しく、ばたばたしていたような気がしていた。
ふと自分の体を覆った影に気付く。
囲った腕の隙間から、白い足が見えて重たい顔を持ち上げる。
悲愴な面持ちをした住職の顔が、近くにあった。
「乱暴なことをしました」
すまなそうに告げる住職の表情は、ひどく蒼い。
「御坊にそんな顔をされたら、文句も言えないじゃない」
そう、泣き笑いのような表情を浮かべた。
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