桃の耳の女

1/5
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
私の肌から滑り落ちていくサテンのシーツがゆっくりと床へ流れていく。私は黙って自分の肌を通り過ぎるそのシーツの感触を、どこか遠い意識の中で感じていた。それはまるで少し乾いたナメクジの様な、指先で触れた桃の皮のような、少しざらついているのに引っかかりのないものだった。 ベットに腰掛け私の隣で本を読む彼もこのシーツと同じでなんの引っ掛かりもなく私の上を通り過ぎていく男だ。 彼は三十六になってようやく眼鏡をするようになった。昔からもうずっと目が悪かったのに頑なに眼鏡を嫌っていた。免許更新で仕方なく利用してから彼は少しずつ眼鏡に慣れていった。物書きが眼鏡をしているといかにもそれっぽい感じがして嫌だと言うのが彼の口癖だ。 先生、そう声をかけようと思ったが彼があまりにも熱心に本を読んでいるものだから私は少し開いた唇をまた閉じた。歳のわりに白髪が多い猫っ毛に、少し刻まれたほうれい線がなぜだか彼をものすごく男らしく見せていた。昔は同い年の男が好きだったのに、私はなぜか十も年上の男を愛している。彼は床に落ちたシーツに気づくことなく小説のページをめくる。その指に触れようとした時、ホテルの部屋に無機質な電話の音が響いた。私は枕元に手を伸ばし受話器を握る。 「はい」 「チェックアウトのお時間ですが」 「すいません。一時間延長してもらっていいですか?」 「かしこまりました」 フロントスタッフは延長料金の事には触れずに内線を切った。いつも彼とこのホテルに泊まる時、私たちは決まって一時間延長する。起きているのだけどこのままホテルを出てしまえばこの夢の時間は終わってしまう。私は月に一、二回のこの瞬間を生きがいにしているのだ。この時間がなくなればきっと私は廃人になってもう二度と立ち上がれないほど落ちぶれてしまうだろう。目をこすり、彼に手を伸ばそうとした。でも触れようとした場所にもう彼の姿はない。私の伸ばした手はあまりにも頼りなくしなだれていく。仕方なく私は柔らかい枕にそっと顔を埋めた。そして幻覚で見た彼の姿を真っ暗な瞼の裏でもう一度鮮明に思い出す。 笹島 幸は有名な小説家だった。私は彼の書く小説が本当に好きだった。文に暖かみがあって、優しい小説だった。優しくて私はその世界にずっと浸かっていたいと何度願った事だろう。この世界が彼の小説みたいに優しければいいのに。そうしたら私はもっとちゃんとまっとうに生きれるんじゃないだろうか。でも先生はそんな私を人間臭くて好きだと言ってくれた。私は彼に触れられる度、腐っていくこの体が桃色の血が通った肉体へ戻っていく様に驚いていた。どんな男に触れられてもダメだったこの体は彼によって息を吹き返した。 でも私に呼吸を与えてくれる彼はもういない。 彼が死んだのは唐突であっけなかった。お酒を飲んで自宅の階段で足を滑らして頭から落ちて死んだ。小説家にしては絵にも話にもならない死に方だった。ドラマティックでもないし、事件性にもことかける。私はきっともう小説を書くことはないだろう。私が書いてきた小説は全て彼に捧げて彼から授かってきたものだった。彼を失った私は小説家の「前園香奈」でもただの女の「元木真美」でもない。存在を失い腐敗したただの肉だ。 その重い肉を強張った筋肉の筋で無理矢理起こし、腐敗した部分を洗い流すかの様にシャワーを浴び、さらに覆い隠す様に厚く化粧を塗りたくる。あと二時間後には彼の葬儀が始まる。私は彼との出会いを思い出しながら黙々とアイラインを引いた。二年前、出版社のパーティで出会った彼は私を見るなりいきなり耳たぶに触れた。「綺麗な耳だね」彼はそう言って笑った。確かに昔から福耳だとよく言われていたけど、こんな風に触られたのは初めてだった。だいたい女を褒めるときは耳たぶじゃなくて着飾った容姿だろうと思ったが、あまりにも悪気なく笑う彼に私は何故だか好意を抱いた。 黄色いエルメスのポーチを開くとそこには時が止まったかの様に光り輝くシルバーのイヤリングが二つ姿を表す。四つ桃の花が連なったこのロングイヤリングは、彼が唯一私にプレゼントしてくれたものだった。今時ピアスの穴を開けていない私に彼が上海で探してきてくれた。彼は私をごく自然にホテルに招き入れ、当たり前の様に抱いて、なんのしがらみもないかの様に好きだと言った。先生、あなたはどうしてこんな私のことを好きになってくれたんですか?そう聞きたくてももう答えは返ってこない。昨日買った喪服に袖を通し、私はその桃のイヤリングをしてホテルの部屋をでた。重たい足取りでチェックアウトを済ませ、ホテルの前に蟻の様に並んだタクシーに乗り込む。お寺の場所を伝えると話しかけてこようとした運転手に舌打ちをして目を閉じた。今は本当に誰とも話したくなかった。話してしまったら、先生以外の人間に言葉を使ってしまったら、本当に私の中からも完全に彼がいなくなる様な気がした。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!