母の薔薇園

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 長い闘病の末に母が亡くなってから2週間が経った。  父は何事にも手がつかず日がな一日居間でぼんやり、弟もいまだに眠れない夜が続いているという。二人はまだ悲しみの中にいる。  一方の私はといえば、忌引きが明けると何事もなく出勤し、帰宅後はせっせと家事をこなし(なんせ他の二人はそれどころではない)、毎夜翌日に備えてぐっすり眠っていた。  そんな私を見た年上の従姉妹は訳知り顔で「まだ実感が湧かないのね」なんてのたまっていたが、なんのことはない、長い入院や闘病生活の世話をしていたおかげで、とっくに心の準備ができていたのだ。  なにより二次元の推しをもつ者なら、人はいつか死ぬものだと誰でも知っている。  だから、母の遺品の片づけは私がやると申し出た。  父と弟は「なんでもかんでもやらせちゃって悪いね」と言いつつも、「同性同士じゃないと価値が分からないものもあるだろうし」とすぐに了承してくれた。まだ、母の死に向き合う元気がないのだろう。  そんなわけで、貴重な終末の昼下がりの今日、私は母のクローゼットと向かい合っている。  ガラリと扉を引くと、中は意外と物が少ない。死期を悟った母が少しずつ整理していたためだ。  わずかに残った衣類を、さらに仕分ける。  死の直前まで着ていたパジャマや普段着は処分の袋へ、礼服とスーツはハンガーにかけたままにする。鞄も同じ。買い物用のトートバッグは捨てる、母が学生時代に初めて買ったという頑丈な革鞄は残す、高価なブランドものは保留。  次はアクセサリー類。婚約指輪と結婚指輪は取っておくに決まっているが、他はどうしたものか。生前の母はよく「私が死んだら実咲にあげるからね」と言っていたが、私はそもそもアクセサリーを身につけないタイプである。  仕方ない、これも保留。あれも保留。やっぱり保留。  処分の袋はほとんど空のままで、保留の箱だけが満杯になっていく。だめだ、このままじゃ終わらない。そもそもモノを捨てられない星人の私に、故人の部屋の片付けなぞ向いていないのだ。  それなのに、どうしてこの面倒な役を引き受けたのか。  これがあるからだ。  クローゼットの奥深く、鍵付きのカラーボックス。鍵の番号はたぶん「0324」、母の最後の推しの誕生日。  開いた。  カラーボックスの中は、美形の男たちが表紙の、薄い本でいっぱいだった。あんなにあっさり服を捨てた母でも、この本は処分できなかったようだ。  そう、母は腐女子だったのである。  私がこのことに気づいたのは、中学生の頃だった。  それは忘れもしない水曜日の昼下がりのこと、突然の雨で部活が中止になり、いつもより少し早めに私は帰宅した。普段ならパート帰りの母がいるはずなのだが、まだ帰っていない。弟は委員会だし、父はもちろん仕事中、この家には私しかいない。  チャンスだ、と愚かな私は思った。  こっそりと夫婦の寝室に忍び込み、本棚を物色する。父も母も漫画が好きで、よく買う。私たち姉弟もおこぼれに預かるのだが、最近の母は書店でもらったブックカバーをかけたままにしてよく読んでおり、「何読んでるの」と聞いても「秘密」とはぐらかされてしまうのだ。  隠されれば隠されるほど気になってしまうのが、思春期の性である。  好奇心でいっぱいだった私は、本棚の一番上に無造作にさしてある例のカバーがかかったままの本のうちの一冊を、手に取った。  そういえば、カバー付きの本はいくつかあるが、ぱっと見では区別できず不便に違いない。不便さよりも、人に知られたくなさが勝るような本とは、はたしてどのようなものなのか。  一ページめくって、すぐに理解した。  なんだかやたら綺麗な顔をした男が二人、裸で抱き合っていた。ものすごく美化されていてパッと見ただけでは分からなかったが、髪型や服装で察するにこの二人はよく見ると某少年漫画主人公とライバルのようだった。  知ってる。これはBLとかいうジャンルの、同人誌とかいう本だ。  なぜ知っているかと言えば、私も似たような本を悪友から貸してもらい、そしてドはまりした直後だったからである。  「わあ、お母さんと語りあえる、ラッキー!」なんて思えるほど、私はポジティブな人間ではない。  気が遠くなるとはこのことだ。  第一、隠しているものを勝手に探し出した罪で怒られるに決まっているし、少年漫画の熱いバトルをこんな邪な目で見ていたと知ってしまった以上、これからどんな風に母に接していいか分からない。  なにより愛する作品について語るということは、自分自身をさらけ出すということである。  そんなの、恥ずかしすぎる。  という考えがいつまでたっても抜けず、結局何も言い出せないまま、母の体に癌が見つかり、闘病の末にあっさりといなくなってしまった。  今から思うと、よくあんなところにポンと置いておいたものだ。私は自分の戦利品を家族の目につくところにしまっておくなんて、恐ろしすぎて絶対にできない。よほどバレない自信があったにちがいない。  母はそういう人だったのだ。  楽天的というか、良いと悪い二つの可能性が存在するとき、必ず自分にとって都合が良い方の未来だけを想像するタイプ。  そう思うと鍵付きのカラーボックスはかなりマシになったと言える。  おそらく、家族の手による遺品整理を想定して、最後の入院前にここにしまい込んだのだろう。ボックスはまだほこりの一つもついていない。  私は床に座り込み、一冊ずつ取り出してパラパラと検分し、横に山と積み上げていった。漫画、イラスト集、小説、ありとあらゆる手法で表現された愛はすべて男同士のものだった。  その数、30冊。悩んで厳選してこの数になったに違いない。私の右横に保留の塔がまた一つ建立された。  まったく。塔のてっぺんをさすりながら、私は思う。他人のことを言えた義理はないが、これだけのものをどうするつもりだったのか。まさかお棺に入れてもらおうと思っていたわけではあるまいし。  もしかして、アクセサリー類と同様に私に譲るつもりだった、なんてね。  ないない。  母は、私にすべてバレていることも、また私自身が腐女子であることも何も知らなかったはずだ。なんせ私は、買った本は絶対に鍵付きトランクに保管し、イベントに行くときはテキトーな用事をでっちあげ、他所では「ボーイズラブっていうのが流行っているみたいだけど、私はピンとこないなあ」という態度を貫き通していたのだ。  というか、譲られたとして私はどうすればいいのだ。箪笥の肥やしにでもすればいいのか。読むにしたって、ここに並んでいる本はまったく私の好みではない。  私が好きなのはもっとストレートな純愛系なのだ。辛いのは現実だけで手いっぱいなのである。  一方で母の好みは一貫してヤンデレものだったようで、蔵書もすべてその系統だ。地雷というわけではないが、なんでまた、と思ってしまう。  昔からそうなのだ。一事が万事、私と母は趣味が合わない。  母が犬派なら私は猫派だし、推しは全部逆カプ、私は何も入らないようなブランドの鞄よりも何でも入るトートバッグが欲しいし、小さい頃買い与えられたピンクの服を着るのだって本音を言えば気が進まなかった。母が考えたというこの実咲なんてちょっとひねくれた名前も好きじゃない。  そんな私たちが好きな作品について語り合ったところで、どうせ分かり合えないに決まっている。  中学生の私は、そうして母と理解し合うことを諦めた。  けれども、母の方はそうでもなかったようで、この期に及んでいらない指輪を押し付けてくる。無償の愛を求めるのはなにも子供だけではないのだ。  とはいえ、生んで育てて大学にまでやってくれた感謝はある。決して人の道に悖るような人間であったわけでもないし、義理もあるからこうして遺品の整理もしている。  でも、本当にそれだけなのだ。私と母の関係というものは。  とりあえず、本は元に戻しておくか、とカラーボックスの中をのぞくと、ぺらりとした冊子が一冊だけ残っていた。  コピー用紙をホッチキスで止めただけの簡単な製本、いわゆるコピー本だ。  作者名は霞。私の母も香澄と書いてかすみと読む。  まさか、と思っていたが、そのまさかのようである。  母が本を出していたとは。  中身は小説で、ジャンルから察するにおそらく私が生まれる頃に頒布されたと思われる。そのころの母の年齢は今の私と同じくらい。  ないかな、と思ってみてみると、やっぱりあった、あとがき。 今回は拙作をお手に取ってくださりありがとうございます。 楽しんでいただけたでしょうか。 私事になりますが、もうすぐ子供が生まれます。忙しくなってしまうので、最初で最後の記念にと本を出しました。 いつかお腹の子供と一緒にまたこのジャンルにハマるのが、今の私の夢です。 また、いつかどこかで。  まったく。  この文章を書いたのは紛れもなく母だ。  傍若無人で、最後まで娘のことは理解できていると勘違いしていた我儘な私の母。  母は一体どんな思いでこの文章を打ち出し、コピーし、綴じて、会場に搬入し、手渡していったのだろう。「もうすぐ生まれる子供」とは私のことだ。こんなこと同人誌に書くなよ、と思う。妊娠中の体をおしてまでこの本を生み出したのは、推しへの愛だったのか、それとも何か書き残したいことがあったからなのだろうか。そして、なぜ若い頃に書いたこの本を後生大事に持ち続け、このカラーボックスに収めたのか。  私に見せるため? そんなことあってたまるか。  お通夜でも葬式でさえも流れなかった涙が後から後から零れ落ちてくる。  この一冊にこめられた途方もない物量の感情が押し寄せてきて、耐えられなかった。  決して友達にはなれないタイプだった。いわゆる毒親ではなかったと思うし、感謝はしていたけれども、好きには慣れない人種だった。それでも、それでも、私は母が消えて悲しかった。  にじんだ視界の中で、私はようやく本文を読み始める。 読み始めてすぐに「やっぱりね」と私は笑った。 「解釈違いだわ」  母よ、この二人は攻めと受けが逆だ。  鼻をすすって、今度は化粧品の仕分けを始める。  午後一で始めたはずなのに、外はいつのまにか夕焼けだ。  片付けはまだ終わる気配を見せない。
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