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「んで? 練習ほっぽり出して香川くんだりまで帰ってきたわけだお前は」 「その通りだよ先生。今僕はこーんなに後退してしまった君の頭を見ても、涙がチロリとも出ない。事件だよ」  パシンと軽快な音がする。先生は毛がぼうぼうに生えた豪腕で分厚いスコアを丸め、美しい僕の頭を容赦なくぶった。泣くほど痛いはずなのにどこか他人事みたいに思えて、やはり涙は出てこない。  こんな虚しいことがあっていいのだろうか。 「この馬鹿! アホみたいなピンク頭にしよって!」 「似合うよねぇ」 「今頃マネージャーはさぞかし怒り狂っとるだろうよ」 「Jは慣れてるから」 「もう10年も帰ってこんかったくせに今更なんだ! チャイ6をやると聞いた。コンマス不在だなんて……ただでさえお前は目立つ。ネットはブーイングの嵐だぞ」 「ネットは随分前に見るのをやめたよ」  エゴサは好きだったのに、なぜだろう。前は反応の良し悪し関係なく、人が僕に注目してくれることが素直に嬉しかった。でも今は溢れるヘイトを正面から見る気にならない。  見たら恐らく本当に破裂するだろう。僕の心ってやつはそう丈夫じゃなかったってことを、30になって初めて知った。 「心が動かなくなったんだ。こんな時にチャイコフスキーが泣きながら書いた魂の曲を演奏したらどうなると思う? 過去に何度も弾いてきたとはいえ、1楽章のピチカートにたどり着く前に僕はあの世だ、絶対」 「……何しに来た」 「先生の様子見と、第六感のお告げに導かれてね。そろそろ卒コンのコンマスオーディションじゃない? デモテープちょーだいよ」 「詩音」  職員室のソファの背もたれにお腹を乗せたまま、背面の棚を物色する。すると先生は、幼い生徒を(たしな)めるみたいな言い方で僕の名前を呼んだ。
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