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*****「1」*****
冷房の効いたスーパーの自動扉から出ると、バスが見えた。宣伝の軽快なBGMが遠ざかって、間近に迫る車体に釘付けになる。
色褪せたオレンジの車体が地面から立ちのぼる気で、楽園みたいにゆらゆら揺れていた。電光プレートが知らない目的地を私に告げている。
(いけない。そろそろ落ち着くべきなんだ…)
日に明るく透けるあの人の黒髪が、釘を刺すように、さらりと端の方で揺れた気がして、久方ぶりの衝動を押しとどめようとしているのが分かった。
人間が数人、入口に吸い込まれるのが見える。
(あ、まだ間に合う…)
四人、三人
行ったことのない町。
二人、一人
乗り継いで行けばどこまで繋がっている?
(ゼロ…)
カサリ
シンとした緊迫感のなかに、ふいに場違いなプラスチックの音が届いて、知らず踏み出そうとしていた足が止まった。遅れて、自動ドアの開閉音とBGM、人の気配がゆっくりと戻ってくる。
顎の縁をなぞった滴が、サンダルのつま先に一粒落っこちた。蒸すような熱気と騒めきが肌に纏わりつく。
「ふう」
考えていたよりも遠くにあったバスが目の前を通り過ぎて、やっと見えなくなると、残念なような安心するような、懐かしいムズムズする気持ちが残った。
手もとには、トマトと胡瓜、あとトイレットペーパー。丈長のワンピースのポケットにはラムネ味のキャンディ。
包み紙の両耳を無造作に引っ張って、口に放り込む。
「…卵、買ってたんだった」
まばたきをしたら、睫毛で引っ掛かっていた汗がまた、一滴滑り落ちた。
夏の日差しでひりひりしはじめた両腕をそのままに、家を目指す。
(主婦)
自分とは正反対で、土台のようにしっかりとした現実感のあるイメージの言葉。
同じスーパーから出てきたふくよかな女性が小さな子供の手を引いて、足早に歩いて行く。
家庭を支える心と生活の指針。
井戸端会議で情報を仕入れ、公園の花壇の世話をする、活力に溢れた彼女たちにこそ相応しい言葉。
しかし、スーパーの袋を引っさげて、真っ昼間の道を行く私も、傍目に、いったいどう見たら、主婦でないと言えるのか。
よく馴染まない「主婦」という言葉を飴玉と一緒に舌の上で転がしてみる。
ころ ころころ…
大きめの砂糖玉は、まわりにまぶされたザラメが邪魔して、なかなか溶けていかなかった。
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