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「この程度のじゃれ合いで、もう音を上げるのか。イキった割には素人だね」
自分にある正義に悖れば、それは悪だった。
エイシス・タチバナは、微笑んで、顔面が腫れあがり始めた男の胸倉を片手でねじりあげる。
「ひ、ひぃっ」
「ケンカの強さとか、弱さなんか興味はないよ。でも、あんたらが自分よりも弱い者をいたぶろうとした。その卑しさが許せなかった。わかるよね」
「も、もうしねえ。絶対にしねぇからっ」
別の男が懇願した。目の前の男も聞くに堪えない弁明をする。
「だって、おかしいだろ。〝本〟を背負って、ここを独りで歩いているガキを見たらよ。ここじゃ、攫ってくれって言ってるようなもんだろうが。なぁ?」
エイシスは清々しく微笑み、胸倉を掴んだまま男を吊り上げた。背もさほど変わらぬ男の踵が地面から数センチ浮き上がる。
「バカだなあ。そこをあえて心配してやるのが、男の器量ってもんだろう?」
仲間に投げつける。2人は重なり合うようにして動かなくなった。
ここは、王都フルハウス。
ラベンダ区bのジャンジャンブル通りという〝本屋街〟の路地裏である。
町の中心から少し東に外れた商街区。表通りのショーケースには宝石をちりばめた〝本〟が店の威勢を競うように陳列されている。
だが、一歩裏路地に入ると、そこは薄暗く細い路地が入り組んだ迷路。〝野良〟どもには格好の住処となっていた。
エイシスが立ち寄ったのは、そんな裏路地に古い公園だ。
高い銀杏の木が青々と茂って陽射しもあり、静かで、いい風が吹く。
ふと物寂しくなった時、そこの朽ちかけたベンチに腰掛けて夕方まで〝彼女〟と会話する。
名前も知らない二〇代の女性。西方世界では珍しい、父と風貌が似た東方人の特徴をしていた。
彼女は黙ったまま、厳しい目でエイシスを見つめて、何も言わない。
でも、その目がずっと、エイシスを嘖んでくる。
何が言いたいのかも。何を伝えたいのかも、エイシスには分からない。
ただ頭の隅っこにある断片的な記憶──たぶん幼い頃の自分が告げてくるのだ。
──俺は、昔、この女性を見殺しにした
自分にある正義に悖れば、それは悪だった。
「いつまでそこに立っていらっしゃるのですか?」
不意に声をかけられて、エイシスは我に返った。
「失礼。相席させていただいてもよろしいですか」
「どうぞ……」
足の生えた〝本〟がよいしょとベンチから下りて、横歩きで半歩右にずれて、また座ったように見えた。それほどまでに〝本〟が大きく、主人が小さいのだ。
エイシスは座る前に、まず〝本〟の主人をその本ごしに確認した。
年の頃は、12歳くらい。性別は女性。
黒髪を肩で美しく切りそろえてある。顔は愛らしいが、口許の笑みから知識欲がこぼれ出ていて、ちょっと怖い。
赤と白を基調とした衣服のランクは明らかに上級貴族のそれだった。
そして、むしろこっちが本体かという〝本〟は、全長52センチ。厚さ35センチ。
装飾らしい装飾はほとんどなく、馬革のしっとりとした艶が高級感を醸し出している。綴り糸も貴族では一般な金を使うところ、あえて銀にして渋く演出しているのが見て取れる。良いセンスの注文装幀本だ。
およそ子供が好みそうな漫画や絵本の冊子本でもなければ、女性が好みそうな意匠でもない。なのに、この子の知識と戯れるようなニヤケっぷりが凄まじい。
そっと首を傾けて、本の題名を探す。注文装幀の場合は、ないことが多いが。
「何か、御用でしょうか?」
「ごめんね。きみのような可憐な女性が、どのような内容を読まれているのかと怪訝に思ったものだから」
少女は本から顔を上げずに、羊皮紙のページをはらりとめくり、
「ご内密に願えますか」
「題名をかい? うん。まあ、いいけど」
「……『ダリア地理地質実相報告書』です」
「えっ」
ダリア地理地質実相報告書。
政府が10年おきに市井に公表している正規調査文書。いわゆる国土白書と通称されるものだ。
それを小さな女の子が漫画を読むようにニヤつきながら眺めているのだ。
(変な子……)
女性の評価はポジティブに考えるエイシスでさえ、そう評せざるを得ない。
「あの……」
少女がおもむろに本から目を出してきた。クリクリとした蒼黒色の瞳がこちらを見上げる。前にどこかで見たことのある瞳だった。
「今更なのですけど、このことはご内密にお願いします」
「えっと。ごめん。このこととは、どのことかな。本のこと?」
「ここに私がいたことと、ここで私が何をしていたか。そのすべてです」
幼い少女が、身分違いの恋に忍ぶ乙女のようなことを言った。対象が公文書本なので、艶めいたムードとはほど遠いが。
「ええ。もちろん。努めさせていただきます」
貴族の作法に則った受け答えで流す。それでようやく、少女に本以外のことに興味を持ってもらえたらしい。
「あの、あなた様はどちらの御家の方でしょうか」
人に名前を尋ねる前に自分の名を名乗れ。という名セリフを言ってみたかったが、相手は自分よりも小さな子供だ。野暮はよそう。
「エイシス・タチバナと申します。爵位はまだございませんが」
「まあ、タチバナ家の。では、セツドウ小父様のご子息様でしたのね……それでは、私も名乗って大丈夫ですね」
12歳程度の少女が父親との知り合い。頭の中でちっとも釣り合いが取れなくて、内心で笑いたいのを必死で堪えた。
「アルト・レイヴンハートと申します。あの、本が重いものですから、お辞儀の省略はご容赦くださいませね」
(レイヴンハート……この子がアイツの〝片割れ〟だったのか)
なるほどね。エイシスはついに堪えきれず、小さく笑ってしまった。
【両双家】筆頭となる公爵家の令嬢が、実家にも内緒にしてこんな小さな公園で読書にふけっている。
少女が親にも内緒で本を買う。小遣いいくらもらってるんだろう。その1冊で、馬車が2台くらい買えてしまえたりするだろうに。
この時のエイシスの認識は、まだ、その程度だった。
(まあ、王都暮らしもあと2年だ。彼女とはこの場限りの出会いかも)
すぐに割り切ったつもりになったけれど、出会いも運命を紡ぐ一糸だとエイシスは思い知ることになる。
そう、事件の開幕は、それほど時を待たなかったのである。
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