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 アルトが二の句を継げないでいると、教授は続けていった。 「ベヒモスの分類は実は遅れている。脊椎動物で卵を産む。いや、厳密には卵のような卵嚢を産む」 「ベヒモスは雌雄同体なのですか」 「うん。その可能性はあるが、今はなんとも言えないな。現状、交尾や産卵する場にも立ち会えていない。群れの中で子供はいないから授乳の場面もまだだ。もしかすると哺乳類と決めつけることもできないのかも知れない。まったく謎だらけ。研究途上の魔物なんだ」 「では、ここのベヒモスロードの獣齢は?」 「うん。現時点で剥れ落ちたロードの古い甲殻の断面層を数えても、最低でも600年は経っていた。もしかすると千年を超えるかも知れない。まさに竜のごとき長寿だよ」  アルトはふむふむとうなずいた。 「私の叔父で、ロークワゴン・ダイアクロウは最低でも800歳と推定していました」  するとモリゾ教授はワームラットのあぶり焼きを手にしたまま立ち上がり、目に見えて慌て始めた。 「なっ、何という奇縁だ! きみはダイアクロウ学長の姪御さんだったのか。ああ、これは大変失礼を……ああ、もうっ。魔物肉を食べさせるなんてっ」 「叔父をご存じでなのですか?」 「僕がここまでこれたのも、学長の支援があったればこそだよ。ここを降りれば長期入牢も覚悟したまえとの忠告までもらってね。それで12年だ。  彼に恩を返そうと思っても返せないから、せめて初期の研究データを記した手帖を自宅において飛び出したんだが、彼に届いただろうか」  ん? アルトは腕組みし、右手で小さなおとがいを摘まんだ。 「えっと。話が逸れがちなので少し戻ります。ガルグイユがベヒモスの卵を食べるにしても、どこから奪ってきているのですか?」  モリゾ教授は焚き火の前に座り直すと、夕食をかじりながら、 「一般に、ベヒモスは岩塩鉱を主食とし、石炭やその他の鉱山を食い漁っている。というのが通説だね」 「はい。それは私も存じています」  弟に言わせれば「どこの一般だよ」と嫌な顔をしそうだが。 「だが、ここで生活してみて、ベヒモスの主食は海洋生物だと分かっている」 「ええっ!? 魚を食べているのですか?」  周囲から博識を認められたアルトも思わず目を見開いた。 「そうなんだ。小さいものでオキアミと呼ばれる小さなエビに始まり、イワシ、アジ、サンマ、カツオなどの小中魚類に及ぶ」 「それでは、排泄は?」 「もちろん、するとも。ただ、腸が異常に長いのか、私が12年住んだ間でしたのはまだ1回きりだ。しかも水中で白い液状だった」 「鳥の特性ですか?」 「確かに排出したのは濃尿酸かも知れないが、食べた魚介タンパク質を何年もかけて体内で消化しているとは思えない。腸内で腐敗が進むからね。だから逆に消化能力が高いがゆえに、排泄は魚の骨の残滓(ざんし)──余剰カルシウムなどではないかと考えてる。それなら地上でも土に還る」 「なるほど。それでは、もしかしてベヒモスとはクジラの仲間──ううん。クジラのヒレは、かつて手足が2本ずつあり、長年の海洋生活で指がヒレに進化したと考えられてる。でもベヒモスは8本。すでに先祖分岐していた? でも、それだとこれまでの進化通説がひっくり返ってしまいますよね」 「うふふ。アルトくん。きみは実に優秀な生徒だ。Bプラスをあげよう」 「とおっしゃいますと?」何が足りなかったのか訊ねる。 「さっきも言った通り、ベヒモスは卵嚢で産まれる。つまり哺乳類の進化過程で分岐したのではなく、もっと前。爬虫類の時点で分岐した可能性がある。ひょっとするとベヒモスこそが、竜の末裔なのかもしれないよ」  竜。もはや記録に残っているのはごつごつとした鱗のトカゲ。だが爬虫類は火を吐かない。竜はマナと感応する能力がある特殊な進化を遂げた生命体系だ。そのため学会ではいまだどこに分類していいのかも決まっていない。 「なるほど。竜なら、その寿命は500年から2000年ですものね」  モリゾ教授は少年のように目をキラキラさせて拳を握る。 「そう。そこだ。このままベヒモスの生態を調べていけば、竜の起源にたどり着けるかも知れない。  ダイアクロウ学長とも寿命からアプローチした進化論で意見を戦わせて懇意にさせてもらってね。ならば論より実証。フィールドワークに行きたいと拝み倒して、ここまでやってきてるわけさ。〝血塗られ公〟にも面白がられたが、あの方からも書類上は危険人物リスト入りを覚悟してくれと言われたよ」  権威者である父や叔父の制止をふり切ってここまで来た情熱に、アルトは苦笑するほかなかった。求道者とは、常識や善悪とは別の、どこか一本飛び抜けた好奇心でもって周囲を振り切って突っ走ってしまうものらしい。  ……〝わかりみ〟が深い。 「何と言っていいのか。叔父も、教授が生きていると知れば、安堵すると思います」  現場主義の求道者は朗らかに目を細めた。 「学長には、まだ当分ここにいると伝えてくれないか。居心地がいいからと。──で、さっきの続きだ」  モリゾ教授はまた講義に戻る教師の顔になった。 「ベヒモスは海も泳いで渡るが、地上に卵を産む性質がある。そして孵化する時期を彼女たちは知っている。ベヒモスの道は、そのゆりかごの巡回なのだよ」 「ゆりかご……もしかして、岩塩鉱や石炭鉱をくずしているのは、卵の孵化を助け、促すためですか?」 「どうも、そのようだ。だがそのタイミングを見計らって、ガルグイユが卵を食用として奪っていく」 「では、その瞬間を?」  モリゾ教授は何度もうなずいた。 「ああ、見た。10年も前のことになるが、僕もそのおこぼれに預かって、卵を食べてもみた。卵ひとつの大きさがヒツジくらいの岩でね。中はオレンジがかかった色をしている」 「それで、味は。どうでした?」他に訊きようがなかった。 「猛毒だ。あれは人間が食べていいものではなかったよ」 「具体的には。どのようなことが?」 「筋力や持久力が増強し、極度の興奮状態。いわゆる心臓の動悸が跳ね上がった。その結果──、脱毛した」 「はいっ?」  アルトは目が点になった。  モリゾ教授は体験した悪夢を話すように悲愴な顔で語った。 「毛が抜けるんだ。頭と言わず全身の毛がね。その後、頭髪はなんとか戻りつつあるが、手足の毛はいまだ戻ってきてない。つるつるだ」 「それでは、ガルグイユの無毛は、ベヒモスの卵を食べた影響で?」 「うん。間違いなくそうだろう。だがその一方で、ガルグイユは生殖に対する意欲が飛躍的に増し、流産や死産が減った。そのため彼らはベヒモスの卵の栄養価を病的に欲している」 「ガルグイユは無精卵でも流産ですか?」 「うん。卵殻をうまく形成できないことが多いようだ。そこで神経毒を分泌した唾液で卵殻を包み、幼生を木のウロなどに入れて保育している。  だが、ここ二、三年はどういうわけか、ベヒモスロードが卵の採掘をしていない。これは30年前と、12年前の時と同じ状況なんだ。  そのためガルグイユは栄養不足による生殖活動が困窮しているらしくてね。狩り場に雌を連れて行って一番に食事を与えようとするほど、先天的に雌の体力が弱まっているようだ」 「あの、実は私、ガルグイユ解剖後に献体を奪われ、そのまま私もここまで連れ去られてきたのです」 「えっ。ああ、なるほど。そういうことだったのか。それはすごい……うん。たぶん雄が雌を取り返すのと同じ心理で、きみの身体に付着した雌の血臭で雌だと勘違いしたんじゃないかと思うのだが」  アルトは今さらになって、魔物の返り血を浴びた自分の手術着を見た。  人違いにしたって、ナワバリについた途端に地面へ投げ捨てるのはあんまりだ。アルトはここまで運んだガルグイユの雄に文句を言ってやりたかった。 「とにかく、ガルグイユは雄の雌への献身が目立つよ。彼らは種の保存に貪欲だから」 (……えーと、ダイレクトに雌扱いされなかったことは喜んでいいのかも) 「では、教授。ベヒモスロードが航路を変更したのが、その卵の回収であったとしたら、どうしたらよいでしょうか」  モリゾ教授は質問の意図が読めなかったのかワームラットかじりながら、 「僕はベヒモスの個体数が増えることは悪いことではないと思っている。だからといって、ガルグイユに滅びてしまえとも思っていないよ。彼らは至極真っ当な生存競争をしている。人の身もわきまえず、どちらかに味方しようという気はないんだ」  アルトはうなずいた。でも今回は、わきまえない人がいたから動かざるを得ない。 「私も同意します。ですが、このまま行くとサクラメントにベヒモスロードが突っこんで行ってしまうので、それを回避するよう尽力したいと思います」 「うーん。僕も協力は惜しまないが、ここはいわば孤島だ。外への連絡はどうするかね?」 「あの、ここにヤシの実の殻はありますか?」 「ヤシの実の殻? そんな物でよければいくらでもあるよ。バケツ代わりに使っているのが数十個ある」  そんなにいらない。 「ひとつ分でいいのです。その中に手紙を入れて、殻の外に枯れ草を巻き付けて火をつけ、夜にここから投げ落とすのです」 「……なるほど」  アルトはおやっと思った。モリゾ教授の顔に不安げな記憶が蘇った(かげ)がさした気がした。 「それで、ベヒモスロードを観測している人達に気づいてもらえ、中の手紙を第3師団司令部野営地まで運んでくれるはずなのです」 「ふむ、なるほど。……ダイアクロウ学長も前途有望な姪御さんを持たれて羨ましい限りだ」  笑顔で言われたので、ちょっと照れくさい。上目遣いにアルトはおずおずと訊ねた。 「あのぉ、差し出がましいことをお聞きしますが、教授は娘さんとの交流は?」 「娘?」モリゾ教授は不思議そうな顔をした。 「僕に子供はいないよ。というか、僕はずっと独身だ」 「えっ、ええっ?」  アルトは目を見開いた。
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