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 あっさり飛んでみたんだけど。  これ、どうやって止めればいいのかしら。  ベルサはすこしだけ考えて、行く手を横切ったガルグイユの後頭部を掴んだ。その背中に衝撃を預け、自分の体重ごと顔面を大木の幹に叩きつけた。さらに、そのままずり落ちるに任せて地上に降下した。 「ふぅ……ヨシ。無事着地、と」  ベルサは滑空スーツを脱ぐと、魔物の死体の上に投げ捨てた。  森が騒ぎ始めたが、気にしない。木々の合間から小さな焚き火の明かりが見てとれた。  こいつら、あのお嬢さんをもう食べちゃったのかな。ひと口食べただけでも頭がよくなりそうだった。本当に天才ってこの世界にいるのね。  わたしの絵を褒めてくれた人は割と多いけど、わたしの絵を他のことに使ってくれた人はあのお嬢さんだけ。魔物の解剖図なんて初めてで刺激的だった。  おかげで最初怖かった醜悪な魔物が、気づけばなんともなくなっていた。  知るということは、恐怖を払うこと。  知らない力、知らない理屈。それを押しつけてくるから恐怖は恐怖たりえる。  だから魔法を恐怖たらしめているこの世界は、壊さなければならない。  わたしは、これから恐怖〝ベヒモス〟を解明しながら独占し続ける男から知識を奪いに行く。  魔法世界が恐怖する存在を御する術を手に入れる。  その手始めが交易都市クラリティの破壊。この手柄を挙げれば、熾天司祭アマリリスの名は不動となるだろう。  そんな時、森の上空に赤い閃光がまたたいた。ガルグイユたちが何事かと神経質に騒ぐ。 「ちぃっ。もう感づかれたか。国立枢機院も鼻が利く猟犬がいるようね」  この上は、急がねばならない。  法衣の袖から血塗られたハンマーを取り出した。 「魔女に与える鉄槌は、汝の業を問うため扉を叩く──インペトゥース」   §  §  §  ベヒモスロードが、中央広場に置かれた27個の卵を、口に入れた。 「教授っ。ロードが卵を食べてしまいましたぁっ!」  アルトは興奮気味に、教授から借りた望遠鏡を握りしめた。 「うん。あれはもしかすると〝口内保育〟(マウスブルーディング)かもしれないね」  モリゾ教授も興奮冷めやらぬ様子で破顔した。 「ということは、海棲生物だった頃の名残でしょうか?」 「アルトくん。名残じゃないよ。今もそうなんだ。うん。ベヒモスは外からでもわかるんだが、あご下に頬袋のような皮膜袋を持っているんだ。  おそらく、あそこが陸上での卵の保育器なのかも知れない。そこに温かい海水を入れて卵を孵化させるんじゃないかと思う」  口内保育。  一般に魚類や両生類は、無防備な卵や稚魚の時期に他の動物に捕食されやすい。このため、一部の生物では一定期間を親が子を自らの口の中で育てる習性がある。無論、孵化や保育する間、親は外から食べられない過酷な期間となる。 「孵化までの期間はどれくらいになるんでしょう。赤ちゃん見てみたいですっ」  ほかほか笑顔でアルトが声を弾ませる。モリゾ教授もつい嬉しくなって微笑む。 「そう時間はかからないだろうね。遅くとも3週間以内ではないかな」 「では、主な保育場所は海──でしょうか」 「そうなるだろうね。海なら幼生のエサとなりやすい浮遊生物(プランクトン)や小魚も豊富だ。もちろん潮流や外敵などの危険とも隣り合わせだが、陸地よりも安全だろう」 「そこに教授も随行されるのですね」 「もちろんだとも。ベヒモスの子育て期間は貴重な生態データとなるだろう。それを見届けて3年したら、ここを降りるつもりだ。そろそろロークワゴン学院長に論文を提出しなくてはならないからね」 「でも、そうすると教授は牢屋に入らなくてはならないのですよね?」  アルトが顔を曇らせる。モリゾ教授はまったく気にしていない素振りで肩をすくめた。 「ベヒモスロード12年の生態は、(ここ)に入ってる。あとはペンと紙があれば、どこでも書けるさ。惜しむらくはフィールドワークに出られないことだけだがね」 「教授……ブレないですね」 「ふふ。ベヒモスは僕の人生そのものだ。なんなら、きみがどこかの殿方と婚礼式を挙げて、国王に恩赦を取り付けてくれないか。そうすれば、僕はまたベヒモスロードに乗って、彼らの生態を追えるんだ」 「まあっ、教授。ベヒモスのための政略結婚はお断りしますっ」  きっぱりアルトが応じると、笑いが起きた。その時だった。 「ご歓談のところを大変失礼いたします」  茂みを割って、黒いスカプラリオの法衣をまとった修道女があられた。 「アルフォンソ・モリゾ教授ですよね」 「そうだが……、きみは、いつここに、どうやって来た?」 「先ほど。飛んで参りましたの」  修道女は両手を広げた。袖がずり上がり、両手にハンマーを握っていた。 「ベヒモスの研究データを、こちらに渡していただけますか」 「なっ、なんだって!?」 「あれをこちらで有効活用して差し上げたいと申しているのですよ」 「断る」  モリゾ教授は気負うところなく言った。 「見たところ、どこかの学派に属する修道女のようだね。悪いが、きみ達の権力闘争には興味がない。ましてやベヒモスはただの生物だ。人間の恣意(しい)に振り回していい存在ではない」 「ええ。教授。当方も、あなたの崇高な理念には興味がありませんの。ですから──」  修道女は闇の中で目を見開き、獰猛な笑みを浮かべた。 「断るのであれば、その首。いただきますわね」  修道女が前に一歩踏み出すと、モリゾ教授の前にアルトが両手を広げて立ちはだかった。 「あなた……ベルサさんですよね」 「ふっ、ふふっ。雰囲気変わりますでしょ? でも、どこで気づいておいででした」 「あなたが魔法銃を私の所に持ってきた時からです」 「あら、ずいぶん早い時期からですのね」  アルトは決然と眉を跳ね上げた。 「弟から魔法銃の話を聞いて、ここに魔法銃があることがおかしいと思ったのです。だって、ミライースがスカイラインに自分の作品を持っていくときは試作品。市中に出回る前の製品ですもの。軍に提供している物も試射実験データを得るためです。  そんな物が民間の、新聞社編集長が手に入れられるはずもないし、魔法知識のない社員に護身用にせよと渡すはずもないのです。あれ、どこで手に入れたのですか」 「もちろん、ロイヤルスミスからですわ」 「盗んできたのですか」 「ええ、もちろん。でも使い方がわからなくて。もしかしたら魔法使いの子供に見せたら、少しはわかるんじゃないかって。そしたら案の定。いいえ。それどころか予想以上でした」 「その銃は今、どこに?」 「ジョーイさんに貸しました。最期の最後手前まで友好を見せておくのが、わたしの流儀ですので」  その直後だった。森の上空に再び赤い閃光が飛び散った。 「なに……?」修道女が上を見あげる。 「〝一球火閃(ボーライド)〟。素敵。飛距離も350メートルは伸びてる」  弟の修正の出来映えに、アルトは満足の笑みを空へ向けた。 「おい、きみ。どこかケガをしているのか?」  モリゾ教授が、かばう令嬢を押しのけて前に出た。  アルトも修道女も何のことかわからず毒気を抜かれた。  とっさに修道女が自分の顔に触れた。指先についた赤黒い液体に顔を歪める。さっきの魔法の明かりで闇が薄れ、顔を見られたことに気づいた。  ところが老婆心から近づいたはずのモリゾ教授の足が、ふいに止まった。すぐに今度は後ろに下げて後退りを始めた。そしてアルトの手を引いて、さらに焚き火の方まで戻る。 「教授……っ?」 「なんて、なんて軽率なことを……っ」 「えっ?」 「ここは、ガルグイユのナワバリ内なんだぞ。町を侵攻した外野交戦ならともかく、彼らのナワバリの中でガルグイユを殺したのかっ!」  その危機感を理解し、アルトもまた緊張に表情を凍らせた。 「教授っ、まさかガルグイユの社会はハチのヒエラルキーですか!?」 「そうだよ、アルトくん。兵隊バチだ。卵を狙うのが働きハチだとしたら、巣を守るハチもいる」 「それじゃあ、ベルサさんは外敵に?」 「ああ、この臭い。彼女が顔に浴びているのは、ガルグイユの返り血だ。ベヒモスロードの背中で、彼女はもうじき敵と認識される。いや、すでにされたといっていいだろう」  アルトは教授に手を引かれながら、叫んだ。 「ベルサさん。はやく逃げてっ。今すぐこのベヒモスロードから降りてくださいっ!」  少女の必死の説得にも、修道女は追いながら冷笑を浮かべた。 「そうはいかないのです。これもお役目ですもの。おふたりにはクラリティの海まで付き合っていただこうかしら」 「違いますっ。ロードは先ほど、クラリティに運ばれていた卵をこのサクラメントの町で食べました。口内保育です」 「あの卵を食べた? 口内保育? 意味がわからないですね」 「とにかく、もうロードがクラリティに向かう理由がなくなったのです。このまま通常の航路に復帰して、バルデシアナ砂漠を抜け、クリティアス海を目指すのです」  理解できる会話は、そこまでだった。  小さな森が、怒りを(はら)んで目を覚ました。
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