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3
ゴボゴボ……っ。ゴボゴボゴボ……っ
ほの暗い水底にあるような闇から、白い手が伸びる。
「来るなっ、来るなっ、来るなっ来るなっ来るなっ、来るなっ、来るなぁっ!」
ベルサはそれを両手のハンマーでことごとく打ち払う。打ち払った後からまた手が伸びてきて袖を掴まれ、スカプラリオを引きちぎられる。ほどけた髪を掴まれ、ついに闇の中に引きずり込まれていった。
「魔物風情がぁ! 人を、このベルサ・アマリリスを舐めるなぁっ!」
地面を引きずられながら法衣や髪がブチブチと音をたてて引きちぎられる。
ベルサは地面を引きずられながら左のハンマーを行く手に投げた。
ドズッ。鈍い破砕音とともに、引きずられる力が弱まる。右手の自由が回復するや、左腕を掴む手に打ちつけた。自分の骨にまで響く一撃は、怪物の手首をへし折った。
そこでようやく身体が停まった。右のハンマーを大車輪に旋回。魔物の接近を遠ざけ、さきほど投げたハンマーを拾う。
「はぁッ。はぁッ……あと一歩。あと一歩のところで。お前たちが邪魔するからあっ!」
吼えて突っこんできたガルグイユの頭を左右から打ち砕く。圧壊した頭部の液体が、戦う修道女の顔にさらなる戦化粧を描きくわえる。
「どけっ、鬼畜どもっ! わが鉄槌の前に、卑小なる肉塊で行く手を塞ぐでないぞ!」
ガルグイユが上空から強襲する。それを半歩さがって鼻先で避けると、左でうなじから頸骨を粉砕。即死体を踏み越えて前に進む。
「ほう。多少かじられても、まだ生きてたか。さすが教団幹部だ。しぶといじゃねえの」
焚き火の明かりと闇の境界に、赤髪の剣士が立っていた。
その足下にはガルグイユが数体、事切れていた。
ひと目見て、越えられないと直感した。
打ち砕かなければ、通れない壁だと。
「国立、枢機院……将官かしら」
「アテンザだ。おたく、〝戦鎚のアマリリス〟だな。殺人と殺人未遂。第1級警戒区域侵犯。並びに徒党詭計謀議罪で逮捕する。手向かいすれば──斬る」
斬ると宣言しても、剣は抜かない。そのかわり、薄闇の中に底光りする殺意の眼差しだけが言葉を裏付けていた。
「戦いに殉ずる覚悟はいつでも──」
あとの言葉をベルサはとっさに飲み込んだ。
闇の奥から、邪悪な風が吹き荒れた。
後ろを振り返りざま、とっさにハンマーを交差して身を庇う。
衝撃。叩きつけられた巨大なこぶしに目を瞠る。受けた重圧が全身を押し潰そうとしてくる。
「ぬぎぎぎ……っ。こいつ……何っ!?」
これを弾かれたら終わる。必死にこらえるが、やすやすと踵が浮いて低空を吹っ飛んでいた。
「がふっ」自分の声ではなかった。
「教授っ!」
少女の声でベルサは我に返った。
後ろを振り返ると、暗殺目標の男がベヒモスの甲殻に叩きつけられるはずの自分を緩衝に入って受け止めていた。
なぜ。何が起きたのかさっぱり理解できない。
「や、ヤツが久しぶりに穴から出てきた。まあ、無理もないかな」
ヤツ? 誰のことを言っている。
「教授……12年前。サクラメントの町に大型のガルグイユがいましたか?」
「アルトくん。それを誰から?」
「エイシス・タチバナからです。当時5歳だったそうです」
「っ!? そうかぁ……あの子は、生きて戻れたのか。よかった」
「教授。何をご存じなのです?」
「わからない」
「え?」
「あのガルグイユがどういう経緯で、ああなったのか、僕にもわからない。ただ言えることは、あのガルグイユは間違いなく、ここの王だ」
「王? つまり、女王バチですか?」
「違うな。女王バチは別にいるんだ。女王を戴きながらヒエラルヒーが異なる。とても危険な個体だ。他のガルグイユを恐怖で縛りつけている。僕は彼を〝船長〟と名付けた」
そして、モリゾ教授は修道女のボロボロになった法衣を掴んだ。ベルサが驚くほど強かった。
「きみが強いということはわかった。だが僕は、そんなきみの命を救ったつもりだ。だから僕の頼みを聞いてくれないか」
「なっ! どうして、わたしが……っ」
抗弁が言い終わるのを待たず、モリゾ教授はさらに袖を引いて顔を近づけた。
「このベヒモスロードに乗っている間は、僕たちは生き残るためのチームだ。敵味方の分別は忘れてくれっ。
今日のアイツはすこぶる機嫌が悪い。好物とする卵も手に入らず。メス達は帰ってこず、その上、自分のナワバリに人間が入ってきた。あの機嫌の悪さは尋常じゃない。もうアイツを倒さなければ、僕たちは全滅する」
モリゾ教授はじっと、無言の修道女を見つめてくる。
「きみのその鉄槌は、何かを壊すためでなく、誰かを守るためにふるったことはあるのかい?」
「──ッ!?」
虚を突かれ、修道女は表情をむずむずと動かすだけで、二の句が継げないでいた。モリゾ教授は力強くうなずいた。
「なら、今こそだ。今こそ、きみの強さを振るいたまえ。僕のためとは言わない。この少女を守るために振るってくれないか。きみの命の恩人である僕の頼みだ」
言いたいことだけ言うと、モリゾ教授はがっくりと崩れ落ちた。
「ええっ。ちょっと、ウソでしょ?」
とっさにベルサ・モリゾの時の口調に戻る。
少女が教授のあご下に指を這わせる。
「……大丈夫です。気を失っただけです」
アルトが請け負った。
思わせぶりなのよ。ベルサは軽く吐息する。殺す目標の生存に。
「わたしじゃ、あのよく分からない〝アンデッド〟を倒せないわよ」
「ええ。独りでは無理です。でも、みんなでやればなんとかなるのではないでしょうか」
「なんとかなるって……そんな」
アルトはまっすぐ見つめてくる。その瞳の輝きは息を飲むほどだ。
「一気にすべての問題を解決するのではなく、一つひとつ小さな問題を排除していけば、いつか大きな問題も解決できると思います」
「戦場は一瞬が値千金。言うは易く、行うは難し、かしらね」
「はい。なので、当面はベルサさんにしかできないことをお願いします」
「わたししか、できないこと?」
「〝船長〟の牙を砕いて欲しいのです。上あごの犬歯2本」
「あっ。確か神経毒……だっけ」
アルトは満足げにうなずいた。その無防備な笑顔をとっさに直視できなくなっていた。この子の笑顔……なんなの?
「もうすぐ増援も来ます。それまでにあの方の動きを陽動として利用。その死角外から急所攻撃を」
「くっ……承知したわよ」
なぜ承知した。なぜ拒めない。暗殺側なのに。
「生き残りましょう。私は、あなただけを見殺しにしたりしません」
ハンマーを握りしめた傷だらけの手を小さな両手が包み込んだ。ベルサは無意識に唇を噛みしめた。
心が驚いて目を覚ます。
思いもしない所から、暖かな光が射すのを感じた。
§ § §
生まれて初めて空を飛んだ。
正確には落ちているはずなのに、その感覚が薄れるほど風に乗れていた。
い~っやぁーっふぅーっ!
ジュークが聞いたこともない奇声を上げる。一緒になって歓声を上げると、なんか不安が消え、楽しくなってきた。
ベヒモスロードは卵を置いた木箱のポイントを通過した。踏み潰したとは思えないから食べてしまったのだろうか、喉元が少しだけふくらんでいるようにも見える。
すると、先行するジュークが手を回す。もう降下地点らしい。見本を見せてくれるのかも知れない。
ジュークが〝移風道動〟をはるか前方に放った。
エイシスもそれにならって魔法銃を放つ。4本の指で銃把を握り、人さし指1本で小さなレバーを引くのがちょっと覚束ない。しかも放って2秒。その発動点に到達し、エイシスは頭から突っこんだ。
風の壁を落下速度で押し切っていくのがわかる。真横の落下速度が緩やかになるにつれ、今度は真下に落下する力が大きくなる。眼下に森が見えてなければ、パニックを起こしていたかもしれない。
葉の茂みを揺らして、かっこ悪く枝にしがみつけた。木の枝の固い安心感に大きなため息が洩れる。
その場所から、西の方角でぶつかり合う殺気がした。枝に身体を引き上げると滑空スーツを脱ぐ。これも大事な軍の備品である。紛失してガーベラ少佐あたりに恨まれたら、後が恐い。丸めて抱え持つと枝から枝へ飛び移った。
靴底に固い足場があれば、木の枝もビルの屋上もエイシスには同じだった。
少し進むと、木の枝に小さな背中を見つけた。屈みこむ彼の下枝に着地する。
「ジューク。様子はどう?」
「しっ……アテンザが足止めしてる。姉貴は無事みたいだ」
「ここから回り込む?」
「うん。俺は姉貴に状況説明と指示をもらう。エイシスはアテンザのサポートいくか?」
「気持ちだけね。実際、あの人にサポートはいらないと思う。勉強させてもらうよ」
言葉少なめに交わして、それぞれ左右に跳んだ。
§ § §
アテンザは昔、体長3メートル近いトロールと素手で殴り合ったことは、ある。
途中から酒の入った大樽を枕でも投げるみたいによこしてきたので、道具は反則だと言ってやった。そしたら、「勝てばいい」と実に明瞭な答えが返ってきたので、ぐうの音も出なかった覚えがある。
今回もそんな感じだった。
危機感もさほどなく、だが状況はしっかり持て余した。
相手の攻撃は爪で引っ掻くか、殴るか、噛みつくか。見た目通りの素朴な野性攻撃。だが近づいて殴るには遠い。身体に刺さったままの剣が邪魔をした。
ざっと見て14本。いや槍も含めて14本。大した違いじゃないが、後でそれは俺のだと言い出すヤツが現れるかも知れない。どれも30年前か12年前の骨董品で、持ち主もとっくに諦めてるだろうが。
アテンザは我ながら親切な男だ。抜いていくことにした。
胸に3本。肩に2本。背中に7、8本。相手からの出血はナシ。たいてい金属は血液に含まれる鉄分の酸化に巻き込まれて錆びるもんだ。たしか士官学校で習った。いや幹部候補生教練だったか。とにかく、刃先が腐食していなかった。
ただ、身体から露出していた部分は手入れが最悪だったので、大ガルグイユの攻撃を受けたら根元からあっさり折れていく。かつての名剣だったら、諸行無常だ。
アテンザが徒手空拳と見るや、魔物は嬉しそうに嗤った。勢いを増して腕や肩に掴みかかってきた。もちろんアテンザに魔物と踊る趣味はない。丁重に左右へ払ってお断りする。
「おーい。悪ガキどもは、いつまで時間かかってんだよぉ」
「お前かぁああっ! お前がぁあああっ!」
急に思い詰めた怒声が聞こえたので上を向いたら、木の枝にエイシスが怖い顔で見おろしていた。
肝試しは苦手だ。ていうか、何やってんだ。声をかけようとしたら、大ガルグイユに両肩を掴まれた。ここぞとばかりにあごを開き、黄ばんだ牙から粘液が糸を引いている。その時だった。
「せいっ、やあぁああっ!」
アテンザの背後から鋭い裂帛が飛翔した。
左肩を蹴って前に出たのは、あのハンマー修道女。2本の鉄槌を翼のごとく左右にはためかせ、醜怪な顔面に振り抜いた。
バキン。ひどく安っぽい金属の音がして、2本の牙が砕けて飛んだ。
不意をつかれた打撃に大ガルグイユはのけぞり、獲物の肩から手を放す。が、今度は逆にアテンザからその手をがっちり掴み返した。
「おいおい~。おれはまだ何もしてねーだろぉが。ダウンするにゃあ早いよ、なっ!」
相手を引き寄せる勢いからの、頭突き。右眼を潰す。あれだけ剣をぶっ刺しても生きてるんだ。再生能力くらいあんだろう。そう決めつけてアテンザが追撃に構えたら、
「サナの仇……っ、討たせてもらうぞ!」
大ガルグイユにエイシスが乗ってきた。肩と頭に足をのせ、首筋に深々と突き刺さっていた最後の剣を両手で引き抜いた。
次の瞬間、血飛沫の中から、青い稲妻がほとばしった。
「紫電……っ、清霜っ!」
一閃──。蒼き残月は冴え、きたねえ満月が夜空に舞った。
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