白紙を埋める前に

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白紙を埋める前に

(さかき)」  ノック無しで聞こえてきた低い声に、顔を上げる。 「昼、行かないか?」  研究室に入ってきたのは、隣の研究室にいる同僚の槙野(まきの)。ここへ来てから十一ヶ月の付き合いだから、気配だけで分かる。 「ああ」  計算式で黒くなっている紙束から目を逸らし、机の上に投げ置かれた腕時計を見る。十三時を少し過ぎた時間。まだ少し、どこの食堂も混んでいる頃合いだろうが、腹の虫が暴れ始めている。 「……?」  腕時計を掴みながら槙野の方を見、首を傾げる。大柄な槙野の後ろにいるはずの、槙野の隣の研究室を使っている遠藤(えんどう)の、細身の影が無い。 「遠藤は?」  腕時計を腕に嵌めながら、尋ねる。 「昨日飲み過ぎたんで、今日は休むらしい」  槙野の回答は、普段通りのあっさりとしたものだった。 「不採用通知が立て続けに来て、自棄になったんだろうな」  続く槙野の言葉に、心の中で肩を竦める。  自分と、槙野と遠藤。三人は、一年という約束でこの研究所に職を得ている。再任用の制度は無いから、一年で新しい職を見つけなければならない。一つの採用枠に百人以上が応募する常任の研究職に就くことができる確率は、限りなく小さい。今の任期付き研究職に採用されたこと自体、奇跡なのだ。 「そう」  胸を過った焦燥感を、素っ気ない言葉で封じ込める。 「どこで食べる?」  小さな財布を上着のポケットに突っ込み、念のために机の上を確認する。大丈夫。計算途中の紙の横には、まだ諦めていない公募に応募するための書類が乗っている。その二つの紙束の上に、重し代わりの本を置く。 「実は俺も食欲無いんだ」  次に耳に響いたのは、槙野の意外な台詞。 「昨日、遠藤に深夜まで付き合ってて、さ」  それならば、分かる。槙野の、ポジティブなエネルギーではち切れそうな大柄な身体に目を向ける。自分と違い、槙野は、この研究所のみならず研究所が入っている大学の中にもたくさんの友達がいるらしい。そのうちの何人かを紹介されたが、覚え切れていない。 「じゃあ、南側の蕎麦屋が良いんじゃないか」 「そうだな」  槙野の頷きに、息を吐く。  古い暖房設備が動いている小さな研究室内とは違い、槙野の背中を見ながら進む古ぼけた廊下は、建物内とは思えないほど寒かった。
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